外は雨だ。額に、顔に、大粒の雫がかかる。雨脚はさほど強くないが、空を見上げようとしても、なかなか目を開けられない。 
それ以前に、真っ暗な空にはどれほど目を凝らそうとも何も見えなかった。 
目を細めていた師匠が「くそっ」と短く叫ぶと、家の中に取って返した。一分と経たずに飛び出してきたその手には、車の鍵が握られていた。 
「来い」 
師匠は僕にそう言うと、駐車場へと駆け出す。 
「こんな雨の中、どこ行くんです」 
僕は追いかけながら叫ぶ。心臓がドクドク言っている。さっきまでの穏やかな時間はどこに行った? ていうか、返事は? 
エンジンが掛かる音を聞きながら助手席に飛び乗る。 
「傘も何も持って来てないですよ」 
運転席の師匠に訴えるが、師匠は親指で後部座席の方を示し、「合羽と傘は常備品だ」と言って車を急発進させた。 
フロントを叩く雨粒を跳ね飛ばしながら、ボロ軽四は住宅街をありえない速度で走る。急ハンドルを切っている間に電信柱が迫るのが見えて思わず仰け反った。 

「な、ちょ、な……」 
何か喋ろうとすると、舌を噛みそうになる。これほど乱暴な運転は珍しい。どうして師匠はこんなに焦っているんだ? 
幹線道路に出て、さらにスピードが上がる。しかし右へ左へという横へのGがなくなったので、ようやく一息ついた僕は「なんなんですか。どこに行くんです」と訊いた。 
「通ったんだよ!」 
師匠がハンドルにしがみつきながら叫ぶ。 
ゾクリとした。 
通った。そうだ。さっきの、室内が一瞬暗くなる現象。あれは、何かが通ったのだ。雨雲で覆われた上空を、巨大な何かが。まるで無いはずの光源を遮るかのように。 
ぞわぞわと肌が浮き立つ。何度も経験した小さな怪異とは、全く違う。いつもの日常とほんの少しだけずれた不思議な出来事なら、これほど師匠が取り乱すことはない。 
そんなものと比較にならない。人知の及ばない、何か。 
僕は雨だれが車の屋根を打つ音に聞き耳を立てる。 
「どこへ行くんです」 
もう一度その問いを投げかけると、「山」という短い答え。 
「なぜです」としつこく訊くと、うるさいな、という感じで師匠は「ここに居たんじゃ、よく見えないからだ」と言った。

「山の方は、風下だ。降り始めてからまだたいして経ってない。雨雲がまだ到達してない可能性が高い」 
雨雲が到達していなかったら、なんだと言うんだ。重ねてそう訊ねようとして、その前に答えに思い当たった。 
見たいのだ。師匠は。一体何が上空で起こっているのか。あるいは、空の下の街で、今何が起こっているのか。 
そして車線変更をした瞬間、数日前に登ったばかりの山に向かっていることに気づく。師匠がせんせいと呼ぶ、雲消し名人のいる山にだ。 
車が山道に入る手前で、雨脚が急に弱まりやがて完全に止んでしまった。雨雲の先端を抜けたのだ。 
水気を失ったワイパーが耳障りの悪い音を立てる。くねくねと曲がりくねる山道をガードレールすれすれで登り続け、前回の登山口に差し掛かったが、止まらずに通り過ぎた。道は悪くなったが、まだ車で先へ行けるようだ。 
途中、師匠がふいに口を開いた。 
「お前、気づかなかったか」 
「何にです」 
「雲だよ。雲。空に、変な雲が浮かんでたろ」 
「変な雲?」 
いつのことだろう。そう思って訊いてみると、師匠は「このところずっとだ」と吐き捨てるように言った。 
「ドーナツみたいな形の雲だ」 
何故かゾクッとした。確かに見ている。最近、何度か。しかしそんな食べ物に似た形の雲なんて、お腹が空いていたら何でもそう見えるってだけのことじゃないのか。 
「ずっと見たか」 
「え?」 
「そのドーナツ雲をずっと見てたか」 
「ずっとは、見てないです」 
そう答えた僕に、師匠は奇妙なことを言った。 
「穴の位置が変わっていない」 
見続けていたら分かることだ。 
師匠は険しい顔のままで言う。 
「楕円形に近い形の大きめの積雲が、風に流されている間に、急に先端が凹むんだよ。その凹みが内側に入り込んで来て、先端がまた雲で塞がる。それで穴が出来るんだ。 
雲はドーナツに似た形になる。穴の位置はどんどん風上の方へ移動していく。雲が動いていくのに、穴の絶対位置が変わらないからだ」

穴の位置が変わらない? どういうことだ。 
雲は風に乗って流れて行く。 
空全体が流れて行く中で、絶対位置というものが意味するものを考える。その時、頭の中に奇怪な想像が浮かんだ。 
そんな、馬鹿な。ありえない。 
思わず口に手を当てていた。 
流れる空における絶対位置とは、地上の位置のことだ。地上の同じ地点の上空に、雲の穴が出来ている。 
そこから導き出される絵が…… 
脳裏に瞬く前に、師匠が車を止めた。 
「行くぞ」 
「ちょっと待って下さい」 
 僕は後部座席にあるはずの傘と合羽を探したが、見つからなかった。常備品が聞いて呆れる。 
師匠は平然とドアを開けて外に出た。慌てて僕も飛び出して、追いかける。雨は降っていないが、あたりは真っ暗だ。車から持ち出した懐中電灯で前方を照らしながら師匠が早足に進む。 
行き止まりに見えた舗装道から、奥の藪を抜けると前回歩いた覚えのある山道に出た。かなりショートカット出来ている。その道を二人で急ぐ。もちろん登る方へだ。 
足元が良く見えない分、ガサガサという下生えの感触が気持ち悪い。蛇の尻尾を踏んでしまっても分からないだろう。 
そうして十分かそこらは歩いただろうか。 
『ここから先、私有地』という立て札が懐中電灯の明かりに浮かび上がったが、その枝道には入らず、僕らは先へ進んだ。 
やがて道が開け、左側が崖になっている場所に出る。街が一望できる絶景だ。崖の側まで近づくと、遠くの地上に小さな星のような光が微かに輝いているのが見える。街の明かりだった。 
崖の手前の平らな岩の上に、立っている人影がある。 
「せんせい」 
師匠が呼びかける。するとその修験者姿の老人が振り向いた。 
「何をしに来た、わた雲」 
声が嗄れていた。口にした瞬間、ゴホゴホと咳き込む。 
「あ……」 
そんな老人が屈む姿にも目を向けず、師匠は真っ直ぐ前を見て絶句し、呆然と立ち尽くした。 
空が。 
真っ暗な空がある。

暗さに慣れた僕らの目には、そこに浮かぶ巨大な入道雲の姿がかろうじて捉えられる。闇と同化する夜の雲の群の中に、その雄大な輪郭がわずかに浮かび上がっている。 
山の上の雲の切れ間から覗く微かな月光のためだった。 
入道雲の底は、明かりもまばらな街の上空を覆っている。巨大な蓋のように。その雲の底から、異様なものが突き出ていた。 
「手…… 手だ……」 
思わず僕は呻くように呟いた。声が震えた。目を細めてもっとよく見ようとする。 
手だ。 
巨人の手が、漆黒の入道雲の底から出ている。 
いや、雲だ。あれも。 
巨大な手のように見える形の奇怪な雲。長い棒と、少し膨らんだ手のひら、指。肘から上の部分が下向きに伸びている。 
この距離からでも分かる。夜の暗さに混ざり合いながら、密度の違う黒が、そんな形をしているのが。 
「じじい、あれはなんだ」 
師匠が前方を見据えながら、前回のようなどこか柔らかい物腰を取り払って、鋭い口調で問い質した。 
「……雲だ」 
「本当に雲か」 
老人は小刻みに震えながら小さく頷く。 
「び……尾流雲だ……いや、違う。違う。形は近いが、あれは、あれは…… 馬鹿な。あんな形の……」 
「おい、じじい。なんだ。はっきりしろ。あれはなんだ」 
師匠が詰め寄って老人の方を揺する。 
「ろうと」 
「なに?」 
「ろ……漏斗雲だ……!」 
「漏斗雲って、竜巻になるやつか?」 
師匠はそう言って崖の方を振り返った。 
僕も岩の先に近づき、限界まで身を乗り出す。全神経を集中して目を凝らすと、雲の底から伸びる手の先が少し見えた。 
腕の部分は筒状になっている。そしてその先は何本かに分かれていて、まるでそれが指のように見える。何かを掴もうとしているみたいに広がって、地上に降下しようとしていた。 
「漏斗雲って確か、積乱雲とかの底から降りてきて地面に降りたら竜巻になるやつだな。あんなでかいのか」

師匠が問い掛けると、老人はいきなり「ええええい」と叫んだ。 
そして両腕をいっぱいに突き出し、「消えろ」と喚く。 
雲消しだ。 
だが前回見た時より、なにか違う。腰を落とし、右手と左手を交互に突き出し。その両手が交差する瞬間に、なにかの印を結ぶ。そして一定のリズムで両手の押し引きを繰り返し始めた。 
「あんな、指みたいな形になることがあるのかって、聞いてるんだ」 
師匠が怒鳴るが、全く耳に入っていない様子で、老人は雲消しの動きを繰り返している。 
あんな巨大な雲が消せるのか。 
師匠は種明かしをしていたじゃないか。消せるのは、いや、正確に言うと、消えるのは消滅しかけの小さな積雲だけだと。 
僕は立ち尽くし、呆然と目の前に広がる信じ難い光景を見ていた。闇の中に異様な密度を持って浮かんでいる巨大な入道雲。真っ黒なその姿は何とも言い難いような禍々しさを秘めていた。 
中国の古い物語を読んでいると、「不吉な雲気」が空にあるのをみて、凶兆だとする話がよくあったことを思い出した。 
不吉な雲気とはどんなんだろうと思っていたが、もしそんなものが本当にあるのなら、目の前のこれがそうだろうという確信に似た思いが浮かぶ。 
「ふざけるな」 
師匠が誰にともなく吼える。 
頬を震わせ、両手を強く握り締めている。 
「やめろ…… やめろ!」 
そしてその視線の先には恐ろしい巨人の手が。 
巨人の手? 
その時、僕の脳裏に光が走った。この山上に登る途中で浮かび掛けたイメージが、再来したのだ。 
ドーナツ型の雲。 
その穴。 
穴の位置は変わらない。風に流れる雲に逆らって、穴の位置だけが。地上の同じ地点の上空に、必ず穴がある。 
見えてくる。見えてきた。イメージが勝手に、透明なものの、ありえないはずの輪郭を絵取っている。 
巨人だった。 
目に見えない、巨大な人型のなにかが、じっとそこに立っている。円筒のように雲を刳り貫いて。そして雲はドーナツの形になる。見えない巨人は途方もなく大きい。遥か上空にある雲を突き抜けている。一体どれほどの大きさなのか想像もつかない。

巨人。巨人…… 
僕は身体の芯が震えた。そんなものが存在するはずがない。師匠がこのあいだ巨人について調べていたことが、なにかの予兆のようなものだったのか。 
「やめろ」 
師匠が食い破ろうとするような目付きで、目の前のありえない光景に身を乗り出す。 
真っ黒な雲の底から伸びる手が、渦を巻きながら同時にその指先を幾本も地上に垂らそうとしている。 
あれが地上に落ちたら、竜巻が発生するというのか。鈍重な雲の下にいる人々は、その迫る危機に気づかず、眠っているのだろうか。 
惨事の予感が身体を貫く。恐怖が押し寄せてくる。 
こんなことがあっていいのか。 
ガチガチと歯の根が合わない。 
ただの自然現象ではないことは直感で分かる。では、自然現象ではない自然現象とは、一体なんだ?  
一体なにものにこんなことが起こせるというのか。 
その時、ハッと気づいた。 
指の先にばかり目を奪われていたが、その上部にある腕の部分はなんなのだ。もし。もし、あの指がすべて地上に落ち、竜巻を無差別に発生させたとしても、それで終わるのか? 指が地上に落ちた後、腕がそのまま降下したとしたら…… 
とてつもない大きさだ。 
あれが、竜巻になるのか。うそだろ。 
想像しただけで、目の前が真っ暗になった。 
師匠を振り返る。 
しかし同じ格好のまま、立ち尽くしているだけだ。 
どんな心霊現象にあっても、師匠ならなんとかしてくれる。そんな幻想を抱いていた。でも、こんな、こんなものは。どうしようもないじゃないか! 
目の前で起こる異常な現象をここで見ていることしかできない。 
僕らは日常の隣にある不思議な世界を何度も見てきた。それは日常のほんのちょっとしか隙間から覗くことができたし、時には日常に影響を及ぼすこともあった。だがそれは僕たちに違和感を、恐怖を抱かせるだけの現象に過ぎなかった。 
しかし、今目の前で起ころうとしていることは、日常とそういう世界の間の境界線が破れてしまうことに他ならなかった。 
「えええええい! ええええええええい!」 
老人が一心不乱に雲を消そうとしている。


ぽつり、と僕の額に雨の粒が落ちた。雨雲が移動して来たのだ。街なかを濡らしていた雨雲が、風に乗ってここまで。 
ぽつ、ぽつ、と雨が岩の上に落ちる音が聞えてくる。 
傍観者だった。 
僕は無力で、見ていることしかできなかった。恐怖に身体を縛られながら。 
思わずその場にへたり込んだ。岩の冷たさが、尻のあたりに伝わってくる。 

や…… め…… ろ…… 

師匠は押し殺した声でそう言うのを隣で僕は聞いていた。 
その時だ。 
僕の中に別の感情がふいに浮かんできた。 
なんだこれは。 
一瞬、周囲の音が消える。真っ暗な描画の世界で、僕の中に浮かんだ感情の正体を見つめようとする。しかし厚いベールの奥にあったのは、恐怖だった。恐怖に支配された身体の中に、さらに恐怖が潜んでいた。 

や 
め 
ろ 

一音節ずつの言葉を聞きながら、別の種類の恐怖がだんだんと大きくなって行く。 
それは目の前の異常現象に対するものよりも、大きくなりつつあった。 
首の中に無数の鉄の欠片が混ざり込んだように、ギシギシと音を立てている気がする。僕は、すぐ隣を振り向けなくなっていた。すぐ隣に立っているはずの人を。 
雨が強くなり始めた。髪に、額に、肩に雨粒が落ちてくる。 
影の群。闇に浮かぶ顔。声だけの死者…… 
どんな心霊現象にも、対応してきた。解決し、消滅させ、時に逃走し、けっして負けなかった。 
しかし。 
だめだ。 
これだけはだめだ。 
これだけは止めてはだめだ。

僕は自分の中に育ち始めたその別種の恐怖を抑えながら、声にならない声をあげる。背後からは老人の掛け声がいやに空疎に響いてくる。 
さっきまで目の前の異常な自然現象に、止まってくれという無力な念を送っていた僕の思考が、完全に反転した。 
止まるな。 
止まるな! 
ガタガタと膝が震える。たった二メートル隣が振り向けない。 
その僕の視界の端に、微かな光の粒子が見えた気がした。 

◆ 

どれくらい時間が経っただろうか。 
全身を大きな雨粒が叩いている。周囲はますます暗くなり、視界が利かなくなった。空に稲光が走る。 
その瞬間、老人が動きを止め、僕のすぐ横に顔を突き出した。 
「消えおった」 
そう言って絶句する。 
驚いて僕も雨雲の彼方に目を凝らすが、もう何も見えない。すべてが漆黒の海に沈んでしまったかのようだ。 
「消えた」 
師匠も僕のすぐ前に足を踏み出し、上気した声をあげる。 
「風だ。雨雲が流されて、途切れたんだ」 
目を見開いて僕を振り返る。濡れた髪が額に張り付いているけれど、いつもの師匠だった。僕も立ち上がった。 
そうか。 
今いる山の方角が風下だ。雨雲がこちらへ到達して、街の方はあの巨大な入道雲、つまり積乱雲の下から逃れたんだ。 
だが、あの奇怪な現象までがこちらにやって来るわけではない。それが直感で分かる。 
なぜなら、何度も見たドーナツ雲の穴は地上から見たその位置が固定されていたからだ。 
「あれ」は多分、そこを動けない。そして雲にしか影響を与えられない。雲さえ途切れてしまえば、何も出来ない。 
それも、普通の積雲ならその位置にいくらあっても無力だ。元々竜巻を起こすポテンシャルを持った積乱雲があって初めて地上に破壊的な力を及ぼすことが出来るのだ。 
なぜかそれが分かる。

人知を超えた力で捻じ曲げられた気流が、雲が、その力から逃れたのだった。 
「消したぞ。わた雲。どうだ」 
老人が両手を振り回しながら喚く。その時、稲妻が走り、光で空が切り裂かれた。直後に轟音が響く。 
「まずいな。雷雨だ」 
師匠はそう言って、老人の肩を抱えた。 
「せんせい、山小屋に非難しましょう」 
「わしが消したのだ!」 
老人は上ずった声でそう繰り返した。 
「行くぞ」 
師匠は僕に目配せすると、口に懐中電灯を咥え、老人を半ば引きずるようにして山を降り始めた。 
僕は岩を降りる時に足を滑らせてしまい、尻餅をついた。師匠の持つ懐中電灯の光が遠ざかりつつあるのに焦り、慌てて立ち上がる。ますます雨が強くなる山道を恐る恐る降りて行く。 
僕は一度だけ背後を振り返った。 
視界がなくなり、もう地上の光も何一つ見えない。その上空にあった入道雲も。あの手のような形のものも。 
ただ、僕の頭は想像している。 
雨雲の彼方にそびえ立つ、とてつもなく巨大な人影を。 
それは透明で、けっして目には見えない。しかし、顔の位置にある、何もない空間がこちらを向いている。それが今、僕らのことを見ている。 
その凍るような視線を背中に感じながら、僕は縮こまりそうな足の筋肉を叱咤し、師匠の後を追い掛けた。