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大学二回生の夏だった。 
ある時期、加奈子さんという僕のオカルト道の師匠が、空を見上げながらぼんやりとしていることが多くなった。 
僕の運転する自転車の後輪に乗り、あっちに行けだのそっちに行けだのと王侯貴族のような振る舞いをしていたかと思うと、ふいに喋らなくなったので、そうっと背後を窺うと、顔を上げて空をじっと見ていた。 
「なにか面白いものがありますか」 
と訊くと、「……うん」とは答えるが、うわの空というやつだった。 
僕も自転車を止め、空を見上げてみたが雲がいくつか浮かんでいるだけで特に何の変哲もない良い天気だった。 
その雲のうちの一つがドーナツのように見えたので、ふいに食べたくなり「ミスドに行きませんか」と訊くと、やはり「……うん」とうわの空のままだった。 
連れて行くとドーナツを三つ食べたが、やはりどこか様子がおかしかった気がする。 

そんなことが続き、何か変だと思いながらも特に気にもしていなかったある日、師匠が「面白い人に会わせてやろう」と言いだした。 
この師匠は、妙な人間に知り合いが多く、僕にもその交友関係の全貌は把握しきれていない。大学教授や刑事、資産家など一部にまともな人もいるが、その多くが奇人変人のたぐいだった。 
もちろん奇人の大学教授や変人の資産家もいたので、ようするに多種多様だったということだ。 
その時会わせてもらった人はその中でもトップクラスの人物と言える。何しろ、プライベートで修験者の格好をしているのだ。もちろん修験者ではないのに。 
そのうえ頬と顎には何十年ものなのかというほどの髭を生やしたい放題に生やし、日焼けした顔には皺が幾重にも深く刻まれている。 
確実にレストランには入れないタイプの人だった。 
とにかくその日、僕は師匠に連れられて山に登った。わりと近く、高さもそれなりで頂上まで登ると市内を一望できる山だ。 
普通なら市民の絶好のハイキングコースになりそうだが、途中道が険しいところがあり、そのせいかあまり人気がないようだった。 
頂上まであと少しというところで師匠はふいに現れた枝道の方へ入った。すぐ脇に『ここから先、私有地』という立て札が朽ち果てた姿を晒している。

私有地と言うからには植林でもしているのかと思えば、杉やヒノキの類はろくに生えておらず、竹や名前も知らない潅木が鬱蒼としているばかりだった。 
その道の先に小屋のようなものが見えてきた時には、まさか、と思ったが師匠はその小屋に歩み寄ると「せんせい、いるか」と声を掛けたのだ。 
こんなところに住んでいる人がいるのか、と思って唖然とした。生活用品を買おうと思ったら、そのたびにこの山を登り降りするのか? 
その生活を思うと、まともな人ではないのは確かだった。もっとも別荘なのかも知れない。こんなボロボロの山小屋を別荘にする人の気も知れないが。 
「わたしがきたよ! せんせい」と師匠は大きな声で呼びかけたが返事はない。玄関の扉にはドラム式の鍵が掛かっていた。 
師匠は小屋の周囲をぐるぐると回り、中の様子を伺っていたがどうやら留守らしいと判断したのか、もときた道を戻り始めた。下るのかと思ったが、枝道の所まで戻ると、また頂上の方へ登り始める。 
そうして少し歩くと、潅木の藪が開けた場所に出た。とても見晴らしが良い。頂上はまだ先だが、十分市内をパノラマで見下ろすことが出来る。 
切り立った崖になっている場所の突端に大きな平たい岩があり、その上に薄汚れた白っぽい服を着ている人物が座っているのが見えた。 
「せんせい、やっぱりここか」 
師匠は親しげに呼びかけながら近づいていく。僕もくっついて行って、間近に見たその人物がくだんの修験者風の老人だった。 
あ、別荘じゃなくて、住んでる人だ。 
見た瞬間にそう思った。 
「なんだ、わた雲か」 
老人は落ち窪んだ目でうっそりとこちらを向いた。 
鈴懸と呼ばれる上衣、袴に足元は脚絆。これで法螺貝でも持てば完全に山伏なのだが、生憎手に持っているのはコップ酒だった。 
「お前は実に可愛げのない弟子だ」 
そう言って髭の奥の口をもぐもぐとさせる。 
「なにか持って来たか」 
「はい」 
師匠は僕に向かって顎をしゃくってみせる。慌てて背負っていたリュックサックからさっき買ったばかりのいいちこを取り出す。それもパックの徳用のやつだ。

恐る恐る差し出した僕の手からひったくるようにして奪い取ると、老人はその麦焼酎の蓋を開け、口をつけて飲み始めた。 
ストレートか。昼間からなにやってるんだこの人は。 
あっけに取られて見ている僕に、老人はじっとりした視線をくれた。 
「こいつはなんだ」 
「わたしの弟子ですよ。先生の孫弟子です」 
「ほう」 
老人はいいちこをあおりながら髭に滴る液体を拭きもせず、僕を睨みつける。 
「ならば、見せてやらねばならんの」 
「是非お願いします」 
孫弟子? 
思わずうろたえたが、老人は酒臭い息を吐きながらのそりと腰を上げ、いいちこのパックを置いてからこちらを振り向く。 
「名前は」 
「まだありません。是非付けて下さい」 
師匠がそう言うと、「ふむ」と唸って髭をさすりながら、老人は僕に『肋骨』という名前を授けた。 
なにがなんだか分からない。 
「よし。よおく見ておれ」 
老人は平らな岩の上で立ち上がったまま、空の一点を指差した。 
雲? 
その指の先には一片の小さな雲があった。そして見ている僕らの前で老人は両手を空に突き出した。 
そしてなにか目に見えない力でも飛ばそうとするかのように、その手を何度も突き出したり引いたりし始めた。手のひらは開かれ、顔は下からねめつける様に雲を睨んでいる。 
ええい。えええい。 
髭の下の口から、凄みのある掛け声が響いてくる。 
あ、これは。と、僕は思った。どこかで見たことのある光景だ。老人が気だか念力だかを送っている雲が、だんだんと小さくなり始めた。 
雲消し名人か。 
そんな人をテレビで見たことがある。まさか生で見られるとは。 
笑ってはいけないと思いながらも、喉から鼻の奥にかけて自然に空気が噴き出しつつある。 
えええええい。 
余韻に浸るように両手がぶるぶると震え、その遥か彼方で雲は見事に消えた。

どんな編集をしているのか分からないテレビ番組とは違う。実際に目の前で雲は消えた。笑いは引っ込まなかったが、驚いた気持ちも確かにあった。 
「さすがですね、せんせい」 
師匠が拍手をする。 
さらに岩の上に上がり、老人の横に並ぶと、「わたしもやっていいですか」と言って腕まくりをした。 
「じゃ、あれで」 
そう言ってさっきと似たような雲を指さした。 
老人はその雲と師匠を交互に見ながら、「お前は実に可愛げのない弟子だ」と言った。けれど満足げに頷くと、自分は別の雲を指さし、えええい、と両手を前に突き出した。師匠もその横で、目標に定めた雲に向かって両手を突き出す。 
はたから見ていると、一体何の儀式か、と思うような動きを二人とも繰り返している。 
表情は真剣なのだが、どこか楽しそうだ。 
ええい。 
えいやあ。 
えええい。 
なんの。 
おおりゃあ。 
ぼけおらあ。 
どりゃあ。 
ぼけこらあ。 
なにがこらあ。 
たここらあ。 
…… 
掛け声もだんだんとエキサイトして来る。そのエキサイトぶりに比例して雲は薄くなっていく。そして両者の標的は、五分ほどもすると、完全に空から消えてしまった。 
「恐れ入りました」 
師匠が頭を下げる。わずかの差だったが、老人の雲の方が先に消えたようだ。 
「やるのう、わた雲」 
足元に置いてあったいいちこをひとあおりして、老人は僕の方を見た。 
「肋骨もやれい」 
こうだ。 
老人は肩で息をしながら、また次の雲に狙いを定めて両手を空に伸ばした。

師匠も楽しそうに空を眺めながら、僕にも「さあ雲を選べ」と言う。 
なんだか自分にも出来そうな気がして、輪郭のくっきりしたハンバーグに似た形の雲を選び、「あれでやってみます」と言って念をこめた。 
五分後、どれほど念を送っても僕の選んだ雲は小さくなるどころかむしろ大きくなっていた。 
老人と師匠の雲はまたキレイさっぱり消えてしまったというのに。 
「全然駄目だ」 
老人は僕の姿勢を矯正し始める。 
足の位置、手の形、そして目つき…… 
どれだけ教わっても、僕の雲は一向に消えなかった。 
師匠が含み笑いをしている。 
たっぷり一時間ほどそうして特訓をした後、なんとか一つの雲を消すことに成功した。 
変な感動があり、胸が熱くなった。 
「ありがとうございました」 
「うむ」 
老人は仙人のような髭をしごきながらひとしきり頷くと、腰を下ろしていいちこを飲み始める。それから三人で座り込み、山上から見える景色をぼんやりと眺めていた。 
見上げれば空には様々な形の雲が浮かんでいる。見下ろせば眼下に市街地の雑多な景観が遠く広がっている。 
なんだか妙に穏やかな時間だった。 
小一時間、大の大人が一生懸命雲を消して疲れ果てている。お金は掛からないし、誰も傷つけない。そして誰も得をしない。 
いつの間にか胡坐をかいたまま老人は居眠りを始めている。この奇人変人の鑑のような人物を横目で見ながら、僕は改めて師匠の交友関係の意味不明さに感慨深い思いを抱いていた。 
その師匠が欠伸をしながら立ち上がった。少し遅れて船を漕いでいた老人が顔を上げる。 
「せんせい、帰るよ」 
「そうかね」 
老人は少し残念そうに言った。そして肋骨をちゃんと教えてやれと注文をつけた。師匠は分かりましたと頷く。 
「あ、それから」と師匠が姿勢を正して老人の顔を見つめる。そうしてしばらく何も言い出さなかった。 
「なんだ」 
痺れを切らして老人の方から訊ねる。

師匠はようやく口を開いた。 
「せんせいは、この街で誰よりもたくさん空を見てますよね」 
その問い掛けに、当然だと言わんばかりに老人は無言で大きく頷く。 
「だったら」 
師匠は軽い口調で続けた。いや、軽い口調を装って、そして装い切れずにいた。僕は何故かそれが分かり、前触れもなくゾクリと肌が粟立った。 
「だったら、最近、空がどこかおかしいと思いませんか」 
老人の目つきが変わった。眉間に皺が寄り、眼の奥に火が灯ったかのようだった。 
「言うな、わた雲」 
「例えば、あの」 
「言うな」 
鋭い口調で老人は言い捨てた。空の向こうを指差そうとしていた手を、師匠は静かに下ろす。 
老人の身体が微かに震えている。アルコールのためではない。その身体から漏れ出る怯えの色を僕は確かに感じていた。 
「また来ます」 
師匠はゆっくりとそう言うと、僕に「帰ろう」と合図をした。しかし僕は得体の知れない畏怖に身体が貫かれている。 
下ろしたばかりの師匠の指先が残像となって、脳裏に蘇る。その先には空にゆったりと浮かぶ、大きな雲があった。 
ドーナツの形に似ていた。 

◆ 

帰り道、師匠は種明かしをしてくれた。雲消しの種だ。 
「消せるのは積雲なんだよ」 
それも発達し切れなくて消滅しかかってるやつを選ぶんだ、と言う。 
説明してくれたことによると、積雲というやつはもっともポピュラーな雲で、比較的低層に出来るのだそうだ。 
大気中の水蒸気が凝結し、雲になる高度を凝結高度というらしいが、上昇気流により、その高度を越えた雲粒たちが順に目視できる雲になっていく。だから何もない空に急に雲が発生したように見える。 
さらに上昇気流が続くと、下から押し出されるトコロテンのように次々と凝結高度を越えていく水蒸気によって積雲は上方へと成長していく。

成長が続くと雄大積雲や積乱雲という雲になっていくのだが、多くは上昇して来る湿度の高い空気の塊が途絶えることで成長が止まり、やがて水分が周囲の乾燥した空気に溶け込んで行くことで積雲は消滅する。 
この発生から消滅までの過程は非常に短く、積雲はわずか数分で消えてしまうことがある。 
「そういう消滅しかけてるやつを見つけたら、あとはどんなポーズ取ってようが勝手に消えてくれるからな」 
そう言って師匠は笑った。 
なんだ、やっぱりインチキじゃないか。僕はさっきの老人の姿勢などに関する厳しい直接指導を思い出し、釈然としなかった。 
「まあ、ああいう人なんだ。許してやれ」 
「どういう人なんですか一体」 
ああいう雲消しを気功術の修練だとか言って、新興宗教にハマるような人たちを集めて『奥義』を伝授し、謝金をせしめてでもいるのだろうか。 
胡散臭いことおびただしい人物だが、実際に目の前で雲が消えると妙に説得力がある。そんな詐欺もありえなくはないと思った。 
しかし師匠は笑って手を顔の前で振った。 
「あのじいさんは元バイク屋のおやじだよ。なかなか手広くやっててな、隠居して息子夫婦に店を譲ったあとは楽隠居の身で、好きなことをしてるってわけだ」 
そして元々林業をしていたという先祖伝来の土地があの山にあったのをいいことに、そこに小屋を建てて半ば住み込みながら日がな一日現世とは掛け離れたような生活を送っているのだとか。 
「雲消しはただの趣味だよ。何年か前に地元のテレビ局が取材に来て、消してるところが放送されたもんだから、自分もやりたいっていう連中が弟子入り志願に結構やって来てな。 
金も取らずに気軽に教えてくれるっていうんで、しばらくはちやほやされてたみたいだけど、今じゃすっかり飽きられて、訪ねて来る弟子も私くらいだ」 
「勝手に孫弟子にしないでくださいよ」 
聞くと、肋骨、というのは雲の種類らしい。肋骨雲という雲だ。魚の骨のような形をしているやつらしい。 
正直もっといい名前にして欲しかった。 
「わた雲、は可愛らしい名前ですね」 
師匠は頷く。

「私はテレビ放送される前からの弟子だからな。高校時代に押しかけたから。やっぱり可愛いんだろ。後からの連中は『もつれ』だとか『扁平』だとか、変な名前ばっかりつけられてる。 
傑作なのはハゲた中年のオッサンにつけた『無毛』だな。本当は無毛雲って、れっきとした積乱雲の一種なんだけど…… 怒って帰ったらしい」 
おかしそうに言う。 
それから少しの間沈黙があった。僕はおずおずと口を開く。 
「最後の」 
「ん。なんだ」 
「最後に言ってた、空がおかしいってのは、なんですか」 
師匠は山道を下りながら、つ、と足を止め、僕を振り返った。 
「言うなって、言われたからな」 
さっきまでの冗談めかした表情ではなかった。また得体の知れない不安が腹の底から湧き出てくる。 
空って、この空が何だって言うんだ? 
僕は思わず天を仰ぐ。夏らしい、冴え冴えとした青が頭上高く広がっている。なにもおかしなところなどない。 
師匠もつられるように空を振り仰ぐ。山道の両脇から伸びる高木の枝葉が陽光を遮り、僕らの目元にモザイク模様に似た影を落としていた。 
師匠は目を細めながら空を指差し、「あの一つだけ離れた雲を見てみろ。周囲が毛羽立ってるだろ。ああいうのがこれから消える積雲だ。覚えとけ」 
「はあ」 
きっと生きて行く上で何の役にも立たないだろう。そういう知識を僕は師匠からたくさん詰め込まれて、毎日を過ごしていた。 


それから数日後のことだ。 
僕はそのころ読唇術にハマッていた師匠の練習にしつこくつき合わされていた。 
「おい、今日はエッチな言葉を言わせようとしたらだめだぞ」 
「分かってますよ」 
パクパクパク。 
口だけを動かし、声には出さずに喋っている振りをする。それだけで師匠はある程度は言葉を言い当てられるようにはなっていた。

深夜の十二時を回っていた。蒸し暑い師匠の部屋で差し向かいになること二時間以上。延々とパントマイムのように口だけを動かしているのも飽きてくる。だから、多少のイタズラを混ぜるのだが、師匠にはその冗談がなかなか通じない。 
パクパクパク。 
パクパクパク。 
「……お前、それは……」 
師匠が難しい顔をして僕を睨んでいる。 
外は雨が降り始めたようだ。安アパートの屋根を叩く雨音が嫌に大きく聞える。負けじと大きく口を開けた。 
パクパクパク。 
パクパクパク。 
『上杉達也は、朝倉みなみを愛しています。世界中の誰よりも』 
タッチという漫画の有名なセリフを模写しているのだが、名前の部分を多少変えてあった。手近な二人に。 
師匠が黙ったままなので、もう一度繰り返そうとした時だ、ふいにあたりが暗くなった。 
僕は最初、日が翳ったのだ、と思った。 
夏の昼下がり、大きな雲が空を通り過ぎる時にあるような、あの感じ。 
まさにあれだ。 
…… 
凍りついたように時間が止まる。僕と師匠の二人の時間が。 
部屋の中を日の翳りがゆっくりと移動している。その境目が分かる。畳の上を、暗い部分が走っていく。 
やがて暗くなった部屋にいきなり明るさが戻る。暗い影が落ちているところが、僕らの上を通り過ぎ、部屋の隅まで行くと、同じゆったりしたスピードのまま壁の向こうへと去って行った。 
何ごともなく、部屋は元に戻った。 
ドッドッドッドッドッ………… 
心臓の音がとても大きく聞える。僕の身体は凍りついたように動かない。唾を飲み込もうとして、喉が攣りそうになっている。 
くは、という声が出た。 
向かい合っていた師匠も、目を見開いて身体を硬直させている。 
なんだ、今のは。 
理性が答えを探すが、まったく見つからない。

頭上を、分厚い雲が通り過ぎた。 
それだけのはずだ。一瞬、日が翳り、そして雲が通り過ぎて周囲に明るさが戻った。 
ただそれだけの。 
なんの変哲もない出来事だ。 
今が、夜でさえなければ。 
「うそだろ」 
師匠が顔を強張らせたまま一言そうつぶやく。 
ここは部屋の中なのだ。そして深夜十二時を回っている。当然部屋の明かりをつけている。天井にぶらさがる丸型の蛍光灯。明かりはそれだけだ。
その蛍光灯には全く異常は感じられない。ずっと同じ光度を保っている。消える寸前の瞬きもしていない。 
外は雨が降っている。暗い夜空には厚い雲が掛かっているだろう。その雲のはるか上空には月が出ているかも知れない。けれど、人工の明かりに包まれたアパートの室内に一体どんな力が作用すれば、ないはずの日が翳るなんてことが起こり得るのか。 
じっと同じ姿勢のまま息を殺していた師匠が、ふいに動き出す。 
「なんだ今のは」 
焦ったような声でそう言うと、異常を探そうとするように窓に飛びつく。カーテンを開け、窓の外を覗き込むが、ガラスを雨垂れが叩くばかりでなにも異変は見つからない。 
師匠は窓から離れると、靴をつっかけて玄関から飛び出した。僕も金縛りが解けたようにようやく動き出した身体でそれに続く。