KUMA1892068_TP_V

そこは日中、別の仕事をしている先生が、夜間に開いている塾だった。 
私は日の暮れかけた道を歩いて、そこへ向かっていた。途中で筆箱を忘れたことに気づいて取りに帰ったりしたせいで、初日だというのに遅刻しそうになって少し焦っていた。 
今みたいには舗装もちゃんとされていない道を早足で歩いてると、大きな廃工場の前を通りがかったんだ。 
普段はあんまり通らない道だったから、何気なくその人気(ひとけ)のない不気味な建物の中を覗き込みながら通り過ぎようとしたら…… 
錆び付いてところどころ剥がれたスレートの波板の外壁、その二階部分に窓があって、そこに誰かがいた。すうっと、消えていったけど、確かに私のことを見下ろしていた。 
人間じゃないことはすぐに分かった。そう感じたんだ。 
怖くなって走った。走って、先へ進んだ。 

だけど、遠ざかっていく廃工場が完全に見えなくなる曲がり角に来たとき、私は立ち止まった。 
まず、自分が立ち止まったことに驚いた私は、その理由を考えた。 
廃工場に戻りたいんだ。 
そう考えた時、ゾクゾクした感触が背中を走り抜けたよ。

あの見下ろす視線の、正体が知りたい。 
それは、途方もなく魅惑的な誘惑だった。私はもうそのころには、自分のどうしようもない性癖に気づいていた。抗いがたい、怪異への欲求。それは私だけが求めるものではなく、怪異からも常に私は求められ、欲されていた。 
振り向きたい。 
いや、振り向いてはいけない。 
塾の始まる時間は迫っていた。走って行かなくては間にあわない。勉強は明日から頑張ればいいや。一瞬、そんなことを考えもした。 
でもそんな甘いことを言う人間が、日本の宇宙飛行士候補の一番になれるわけがない。そのことも、子どもながらに悟っていた。一事が万事だ。 
戻るか、進むか。 
振り向くか、振り向かないか。 
その相反する二つの選択の、尖った岐路に私は立っていた。 
わずかに残っていた夕日が山の向こうに消えて、夜の闇が背中から迫って来ている。人のいない道に、ただ一つ伸びていた私の影が見えなくなっていく。 
塗装の剥がれたカーブミラーが道の隅にぽつんと一本立っていて、その大きな瞳に灯っていた光がゆっくりと死んで行こうとしていた。 
戻るか、進むか。 
振り向くか、振り向かないか。 
お化けを見るか、宇宙飛行士になるか。 
自分の呼吸の音だけが身体の中に響いていた。 
やがて私は、一つの選択をする。 
暗い淵に呼ばれるように私は、戻ることを選んだ。 
曲がり角で振り向いて、廃工場の方へ足を踏み出す。 
でもその瞬間、すぐ後ろで遠ざかっていく人の気配を感じた。足早に歩く靴の音まで聞こえる。ああ。もう一人の自分だ。身を焼かれるように宇宙飛行士に憧れた私は、進むことを選んだのだ。 
戻った自分。 
進んだ自分。 
私は、その時二つに分かれた。 
どちらも私だった。二人の私がお互いに背を向けて、歩き出したんだ。

戻った私は、廃工場でこの世のものではないものを見た。とてもおぞましく、恐ろしく、美しかった。 
それから、私は宇宙飛行士になりたいという夢を口にしなくなった。それは、あの時、英語の塾へ行った方の自分が叶えるべきものだったからだ。 
陸おじさんは、その後数年でNASAを退職した。スペースシャトル時代がやってくる前にだ。何度かあったアメリカ政府の宇宙開発にかける予算削減のためだった。 
様々な機器の外注が増え、陸おじさんもそんな業務を扱う民間企業に再就職したけれど、軍需産業にも多角的に経営の手を広げていったその企業の中にあっては、やがて宇宙開発に関するプロジェクトから外れることが多くなった。 
『もう僕は、地球以外の場所で走行するための車両開発に関わることはないだろう』 
寂しそうにそう言った時の彫りの深い横顔が今も脳裏に焼き付いている。その技術に全精力を費やした日々が、遠い彼方へ去っていったことへの、諦めと無力感だけがそこにはあった。 
月面という新たな大地から、人類はしばらくの間、いや、ひょっとすると、永遠に去ってしまったんだ。  


「時々、今でも思うんだ。あの塾へ向かう曲がり角で、進むことを選んだもう一人の自分のことを。そいつは、多分死ぬほど勉強したに違いない。血ヘドを吐くくらい。 
それだけのものを捨てて来たんだから。そしてきっと日本で一番の宇宙飛行士候補になって、アストロノーツに選ばれ、宙(そら)に上がるんだ。 
もう一人の私が選んだ世界は、人が人のまま他の天体に足を踏み下ろすことの価値を、子どものように信じている。私がそう信じたように。そんな世界なんだ。 
そこでは有人月面着陸の計画が再び興され、私はそのクルーに選ばれる。そしてこの役得だけは譲れないという自信家の船長に続いて、二番目か、さらに控えめに三番目の、サーナンとシュミット以来となる月面歩行者になるんだ」 
師匠は眠たげな声で、訥々と語る。隣にいる僕に聞かせるでもなく。 
いつの間にか、虫の音が少し小さくなっていた。どこかとても遠くから聞えてくるようだった。

「月面での様々なミッションが与えられていて、仲間たちは大忙しだ。私は陸おじさんがパーツの多くを開発した月面車(ルナビークル)で、そこら中を走り回るんだ。定期的に着陸機の中で眠り、数日が過ぎる。 
アポロ計画のころより、ずっと長い滞在期間だ。その仕事に追われる日々の中、私は自由時間を与えられる。もちろん定時通信はするし、遠くにも行けない。 
それでも着陸機や、棒で広げられた風にたなびかない星条旗なんかが視界に入らない場所まで行って、そこで私は一人で寝転がるんだ。そこはとても静かだ。 
月の貧弱な重力では大気を繋ぎとめられなかったから、月面という地上にありながら、そこは真空の世界だ。宇宙服の中を循環する空気や冷却水の音。それだけがその世界の音なんだ。 
大気がないために、視界がクリアでどこまでも遠くが見渡せる。それは寒気のする光景だ。白い大地と、黒い空。空と宇宙の境界線なんてありはしない。その大地のどこもすべて宇宙の底なんだ。 
大地にも空にも、どんな生物も生きられない世界。地球を詰め込んだ、宇宙服がなければ…… 心細さに身体を震わせた私は、ふと誰かの視線を感じたような気がする。周囲を見回すけれど、誰もいない。 
小さな丘の向こうにいる仲間たちの他には、誰もいないんだ。この三千八百万平方キロメートルという広大な大地の上に、誰一人。それを知っている私は、子どものころに見た幽霊を思い出す。 
しかし、その幽霊すら、ここにはいない。いることができない。歴史上、この月面で、いや宇宙空間で死んだ人間は誰もいないのだから。幽霊のいない世界。私は今までに感じたことのない恐怖を覚える。 
孤独が、大気の代わりに私を押し包む。感じていた視線は、いや視線の幻は、やがて消える。私は、宇宙飛行士が感じるというある種の錯覚のことを真剣に考える」 
師匠は夢を見るように、うつろな表情で語り続ける。月光がその頬を青白く浮かび上がらせている。 
僕はじっと師匠のことを見ていた。

「そうして私は、もう一人の自分のことを思い出す。小学校五年生の夏休み初日、英語の塾に行かず、廃工場へ戻って行った、もう一人の自分を。 
その自分は、宇宙空間ではない、別の暗い世界の中を彷徨っているだろう。そうして普通の人間にはたどり着けない、恐ろしい光景を見たりしている。その自分は、今どうしているだろうか。 
ひょっとすると、月を見上げて、昔二つに分かれてしまったもう一人の自分に想いをはせているだろうか。 
こうして、月面に一人横たわり、青い円盤(ブルー・マーブル)と呼ばれる、宇宙の闇の中にぽつりと孤独に浮かぶ地球を、じっと見上げている自分のように」 
月を見上げる自分と、地球を見上げる自分。 
二人の自分が互いに、遠くて見えないもう一人の自分と視線を交し合っている。 
その師匠の幻想を、僕はとても美しいと思った。そしてそれは同時に、肌寒くなるほど恐ろしかった。何故かは分からなかった。 
しかしその月光に青白く濡れた横顔を見ていると、ふと思うのだった。 
師匠の語る幻の中では、月世界に一人でいる彼女だけではなく、地球で今こうして藪と藪の間の斜面に寝転がっている彼女の方も、まるで一人だけでいるように思えたのだ。 
そこにはすぐ隣にいるはずの僕も、いや、この日本、そして地球に存在するはずのあらゆる人間もいない。 
ただこの惑星の夜の部分にたった一人でたたずむ、孤独な…… 
「出た」 
ふいに、師匠が立ち上がった。 
身体から離れていた精気が一瞬で戻ったようだった。 
指さすその先に、儚げな光の筋がいくつも飛び交っているのが見えた。 
ああ、人魂だ。 
いや、蛍なのか。 
光は尾を引いて、闇の中を音もなく舞っている。 
僕は下草から漂う青い匂いを吸い込みながら、駆け出した師匠のお尻を追って立ち上がった。