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小高い丘のなだらかに続く斜面に、藪が途切れている場所があった。 
下草の匂いが濃密な夜の空気と混ざりあい、鼻腔を満たしている。その匂いの中に、自分の身体から発散させる化学物質の香りが数滴、嗅ぎ分けられた。 
虫除けスプレーを頭からひっかぶるように全身に散布してきた効果が、まだ持続している証だった。 
それは体温で少しずつ揮発し、体中を目に見えないオーラのように包んで蚊やアブから僕らを守っているに違いない。 
斜面を背に寝転がり、眼前の空には月。そしてその神々しい輝きから離れるにつれ、暗く冷たくなっていく宇宙の闇の中に、星ぼしが微かな呼吸をするように瞬いているのが見える。 

ささのは 
さらさら 
のきばに 
ゆれる 
おほしさま 
きらきら 
きんぎん 
すなご 

虫の音に混ざって、歌が聞える。 
とてもシンプルで優しいメロディだった。 

ごしきのたんざく 
わたしがかいた 
おほしさま 
きらきら 
そらから 
みてる 

歌が終わり、その余韻が藪の奥へ消えていく。僕は目を閉じてそのメロディのもたらすイメージにしばし身を任せる。

虫の音が大きくなる。 
隣に、似たような格好で寝転がっている師匠の方を、片目を開けて覗き見る。 
組んだ両手を枕にして、また右足を左足の膝の上で交差させ、ぶらぶらさせている。そして夜空を見上げながら、さっきの歌を鼻歌にしてまた繰り返し始めた。 
夏になると、師匠はふとした時、気づくとこの鼻歌を歌っていた。機嫌がいい時や、手持ち無沙汰の時。ジグソーパズルをしている時や、野良猫にエサをやっている時。 
しかしその歌を声にして歌っているのを聞いたのは初めてだった。 
大学一回生の夏。 
僕の夏は、たった二度しかなかった。 
その最初の夏が、日々、目も眩むほど荒々しく、そして時にこんな夜には静かに過ぎて行った。 
「出ないなあ」 
師匠が鼻歌の区切りのところで、ぼそりと言った。 
「出ませんねえ」 
それきり鼻歌は止まってしまった。 
僕は聞えてくる虫の音が一体何種類のそれで構成されているのか、ふと気になり、数えようと耳を澄ませる。草の中に隠れているその姿を想像しながら。 
隣で師匠が欠伸を一つした。 
僕たちは、ある心霊スポットに来ていた。遠い昔の古戦場で、この季節になると、まるで蛍のように人魂が舞っている幻想的な光景が見られると聞いて。 
しかし、一向に人魂も蛍も姿を見せず、僕らはじりじりとただ腰を据えて待っているだけだった。 
僕が二の腕に止まった蚊を叩いた時、師匠が口を開いた。 
「いい月だなあ」 
言われて見ると、ちょうど満月なのかも知れない。綺麗な円形をした月だった。 
「いい月ですねえ」と返すと、師匠は「知ってるか」と続けた。 
「来年の一月にな。スーパームーンってやつが出るらしいぞ」 
「知らないですね。満月の一種ですか。どの辺がスーパーなんですか」 
「でかいらしい」 
でかいって…… 月は月だろう。 
「そのスーパーなやつなのか知りませんけど、普段からなんかたまにやたらでかく見える時ありますけどね」

「それは月が地平線の近くにある時だろう。あれは錯覚なんだぞ」 
「錯覚ですか」 
「そう。証拠に、目からの距離を固定した五円玉の穴から覗いてみな。普段の月と大きさは一緒だから。あれは、普段中天にある時は夜空の星を遮る存在で、 
つまり『手前側』にある月が、地平線近くにある時には家とか山とか電信柱とか、他のものに遮られて、つまり遥か『後ろ』、遥か遠くにある、と認識されるために生まれる錯覚なんだよ」 
「そんなもんですかね」 
夕方、まだ向こう側がほのかに赤い地平線から現れる巨大な月を頭に思い描く。 
「でもそのスーパーなやつも結局は錯覚なんでしょう。本当の大きさは同じわけだから」 
「いや、そうじゃない。本当に大きいんだ」 
「そんなわけないでしょう。天体が簡単にでかくなったり縮んだりするわけがない」 
「そういうことじゃなくて、単に地球と月の距離が近くなるんだよ。それぞれ楕円軌道を描いている二つが、何年かに一度しかない、絶妙なタイミングで」 
大きさが変わらないのにそう見える、というのだから、それも錯覚と言うべきである気がしたが、良く分からなくなったので僕は黙っていた。 
「だから、実際にでかく見えるんだ。それも今度のは、スーパームーンの中でもさらに特別に最短距離になる、エクストリーム・スーパームーンってやつらしい」 
聞いただけでも、なんだか凄そうだ。 
「二十年に一度くらいしか来ない、えらいやつだってさ。15%くらいでかく見えるって」 
そうか。そんなにえらいやつが来るなら見てみるか。忘れないようにしよう。そう思って、来年の一月、エクストリーム・スーパームーンという言葉を脳裏に刻み付けた。 
それから師匠は訊きもしないのに、月にまつわる薀蓄を勝手に垂れ始め、僕はそのたびに少し大袈裟に感心したりして、目的である人魂の群が現れるまでの時間を潰した。 
師匠の話はどんどん胡散臭くなり始め、最後には火星と木星の間に昔、地球などと兄弟分の惑星があり、それが崩壊して出来た岩石が今のアステロイドベルトの元になっているという話をしたかと思うと、 
地球には元々衛星はなく、その消滅した惑星の衛星が吹き飛ばされ、地球の引力にキャッチされてその周囲を回り始めたのが今の月なのだと、興奮気味に語った。

一体どこで吹き込まれたのか知らないが、最近学研のムーとかいう雑誌が師匠の部屋に転がっていたのを見たので、きっとそのあたりなのだろう。 
そう思ったところで、さっきのエクストリーム・スーパームーンの信憑性も疑わしくなったので、とりあえず脳に消しゴムをかけておいた。 
僕らがそんなやりとりをしている間にも、月はその角度をわずかずつ変え、僕らの首の角度もそれにつれて少しずつ西へ、西へと向いていった。 
何ごともなく夜は過ぎる。 
虫の音はいつ果てるともなく続き、やがて話し疲れたのか師匠は無口になる。 
だんだんと防虫スプレーの効き目が切れてきたらしく、腕や足に止まる蚊が増え、その微かな感触を察知するたび、僕はパチリ、パチリと叩き続けた。 
十分ほど沈黙が続いた後で、師匠はふいに口を開いた。 
「昔な、宇宙飛行士になりたかったんだ」 
へえ。初耳だった。 
「女性宇宙飛行士ですか」 
「アポロ11号で、アームストロングとオルドリンが月面に人類で始めて降り立った時、私はまだ二歳だか三歳だか、そのくらいの子どもだったけど、周囲の人間たちがテレビを見て大騒ぎをしていたのをなんとなく覚えてるんだ」 
アポロ11号か。僕などまだ生まれていないころだ。 
「最後の月面有人着陸のアポロ17号ははっきり覚えてるぞ。船長のジーン・サーナンがえらく男前でな。そいつとハリソン・シュミットって科学者がさ、月面……『晴れの海』で月面車に乗ってドライブをするのさ。 
そうして人類最後の足跡を残す、って言って去るんだよ。計画のラストミッションだったから。でもそれから本当に人類はただの一度も月に足を踏み入れてないんだ」 
僕はさっきからずっと見上げていた月を、今初めて見たような気持ちで見つめた。 
そうか。あそこに、僕と同じ人間が行ったことがあるんだ。 
改めてそう思うと、なにか恐ろしい気持ちになった。 
月は暗い虚空に浮かんでいて、あそこまで行く、なんの頼るべきすべもないのだ。空気もなく、重力もなく、途方もなく寒く…… 
どうして人類はあんなところに行こうと思ったのだろう。 
そしてどうしてあんなところに行けると信じられたのだろう。もう人類は、その夢から覚めてしまったのかも知れない。 
宇宙飛行になりたかったはずの師匠も、今はこうして地面に寝転がっている 
「いつ諦めたんですか」

「そうだな。小学校五年生の時だ」 
「早いですね」 
もう少し夢を見てもいいのに。 
現実を見ないことにかけては定評のあるこの師匠が、実に殊勝なことだ。 
「笑ったな。でも今でも覚えている。あれは小学校五年生の夏休みが始まった日の夜だ。私は英語の塾に行くことになってたんだよ」 
「小学生が英語ですか」 
「当然だ。宇宙飛行士になりたいなら、英語力は絶対に必要だった。だから親に頼んで、近所の英語を教える塾に通わせてもらうことにした」 
祖父さんの弟で、アメリカに渡った人がいたんだ。 
師匠は月を見上げたまま語る。 
「亀に司って書いて亀司(ひさし)って読む人だ。バイタリティ溢れる人だった。アメリカ人の女性と結婚して、向こうに渡ってな。 
最初はニューヨークで蕎麦屋をやろうとしたんだけど、失敗して、しばらくタクシーの運転手をやってたんだ。それでまた溜めた金で今度はスシバーを始めたらこれが流行った。大儲けさ。 
今もまだその店やってるんだけど、四つか五つ、支店もあるんだ。自分はグリーンカードのままで、帰化申請もしてないんだけど、向こうで生まれた子どもたちはアメリカ国籍を持ってる。日系二世ってやつだな。 
その長男がリックって名前で、工業系の大学へ進んだ後、NASAに入ったんだ」 
「え。本当ですか」 
「ああ。車両開発のエンジニアだった。亀司さんは毎年正月には家族をみんな連れて、うちの実家へ顔を見せに来るんだ。 
NASAの職員だったリック…… 日本名は大陸の『陸』って漢字を当ててたから、私は陸おじさんって呼んでたけど、その陸おじさんが私にはヒーローでな。 
日本にいる間、私はいつも宇宙ロケットとか、宇宙飛行士の話をせがんで、ずっとくっついてた」 
心なしか、懐かしそうに顔がほころんでいる。

「私も宇宙飛行士になって、月に行きたいって言うと、陸おじさんはこう諭すんだ。そのためには勉強を死ぬ気で頑張らないとな、って。これからの宇宙開発は、アメリカ単独ではなく、多国間で協力して進めていくようになる。 
宇宙飛行士も、いろんな国から優秀な人材を選抜するようになるだろうから、その時、日本で一番の宇宙飛行士として選ばれるように、今から頑張らないといけないってさ。 
私もアメリカ人になって、NASAに入って宇宙に行くんだって言い張ったけど、今から加奈ちゃんがNASAに入るのは難しいなあ、と言われたよ。それに、今の宇宙飛行士はNASAの職員じゃなくて、アメリカの軍人ばかりさ、って」 
「それで諦めたんですか」 
「いや、頑張ろうと思ったさ。勉強を。日本人の一番になるために。特に、語学は早いうちに始めた方がいいって言われたから、まず英語を習おうと思ったんだ。 
夏休みの前にも、手紙でもそんなやりとりをしてて、思い立ったんだ。夏休みに入ったら、すぐに行くことにしたよ。でも、その最初の日のことだ」