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吹き抜ける風に金木犀の香りが混じりだすこの季節。 
まだ子供だった頃、この季節の変わり目の匂いを嗅いでは 
なんとなくワクワクした気持ちが胸の底でうずめいていたのを覚えている。 

しかし今より数年前の、僕が成人を迎えた年だったと思う。 
あの得体の知れない出来事を体験して以来、この秋の香りは 
無条件にあの記憶を思い起こすスイッチとなっていた。 

夕日が沈みきる少し前の、まだ空がかろうじて明るい時間。 
当時一人暮らしをしていた僕は、その時間帯になると散歩に出掛けては 
帰りがけに夕飯の材料の買い出しをするのが日課だった。 
その日も普段通り、玄関に散らばるサンダルをつっかけて外へ出た。 
秋の風がむき出しのつま先をじわりと冷やす。 
そろそろ衣替えかとぼんやり思いながら足を動かしていく。 
十分も歩くとやけに街灯の少ない一角に出る。少ないだけなら未だしも三つ 
に一つは壊れかけて変なリズムで点滅しているのだ。 
おまけに片側に続くブロック塀は経年による汚れが酷く、空き家が多いその 
一角の雰囲気は大変に悪い。 
怖がりな人なら絶対に通らないであろう道だった。

けれど怖い話に目がない割に、それらの存在はまったくと言っていい程信じ 
ていなかった僕はいつも気にせず通っていた。 
一つ、また一つと街灯を通りすぎて行く。 

けれど次の街灯に近づくにつれ、その下に何者かが立っているのが見えた。 
白い光に照らされているにも関わらず影のように全体像がはっきりしない。 
人かと思ったが、しかし妙にブロック塀に近いのだ。 
「・・・」 
一瞬、先に進むのをためらったが、立ち止まってしまうと余計に先に進みづ 
らくなるような気がして、そのままの調子で足を進めた。 
街灯に虫でも集まっているのか、ヴゥと低い羽音のようなものが耳に入る。 
たたずむ影まであと五歩も無いところまで来た。 
そこで、ようやく気が付いたのだ。 
人影の様に見えたそれはブロック塀にさなぎの様にべったりと張り付いた黒 
い物体であることに。 
あと三歩。 

目が合った。 

黒い物体には顔があった。否、顔しか無かった。 
無数の顔が、顔だけが、くっついて、ひとつの固まりになっていた。 
金木犀の香りが強くなる。 
虫の羽音だと思ったものは、それぞれの口から漏れるうめき声だった。 

どうやって家まで戻ったかの記憶は無かった。 
そして何故、あの日だけ、あんなものに遭遇してしまったのかもわからな 
かった。 
ただこの一件以来、秋が訪れるたびにあの薄暗い一角での記憶が蘇っては、 
空恐ろしくなる。