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そんなことを言いながらふらふらと南の筋に入り、やがてその通りにあったビルとビルの隙間の細い路地へ身体をねじ込み始めた。太り気味の身体にはいかにも窮屈そうだった。 
だめだ。酔っ払いすぎだ、これは。 
「いいから、ついてこい。世界は折り重なってんだ。同じ道に立っていても、どこからどうやってそこへたどり着いたかで、まったく違う、別の道の先が開けるってこともあるんだ」 
うおおおおおおおおお。 
そんなことを勢い良くわめきながら、おっさんは雑居ビルの狭間へ消えていった。なんだか心魅かれるものがあった僕も、酒の勢いを駆ってついていく。 
それから僕とおっさんは、廃工場の敷地の中を通ったり、古いアパートの階段を上って、二階の通路を通ってから反対側の階段から降りたり、 
居酒屋に入ったかと思うと、なにも注文せずにそのまま奥のトイレの窓から抜け出したりと、無茶苦茶なルートを進みながら少しずつまた北へ向かい始めた。 
ますます楽しくなってきた。街のネオンがキラキラと輝いて、すべてが夢の中にいるようだった。 
気がつくと、また最初の幸町の東西の通りに戻っていた。随分と遠回りしたものだ。 

「どうやって知ったんですか、この空への道」 
「ああん?」 
先を歩くおっさんの背中に問い掛ける。 
「おれも、教えてもらったのよ」 
「誰から」 
「知らねえよ。酔っ払った、別の誰かさぁ」 
おっさんも別の酔っ払いから聞いたわけだ。その酔っ払いも別の酔っ払いから聞いたに違いない。空を歩く道を! 
その連鎖の中に僕も取りこまれたって、わけだ。光栄だなあ。僕も空を歩くことができたら、今度は師匠にもその道を教えてやろう。 
そんなことを考えてほくそ笑んでいると、おっさんは薄汚れた雑居ビルの階段をよっちらよっちらと上り始めた。ほとんどテナントが入っていない、古い建物だった。 
最上階である四階のフロアまで上がると、奥へ伸びる通路を汚らしいソファーやらなにかの廃材などが塞いでいた。

「おい、通れねえぞ」 
おっさんがわめいて僕に顎をしゃくって見せるので、仕方なく力仕事を買って出て、障害物を取り除いた。 
また気分よくおっさんは鼻歌をうたいながら通路を進む。やけに長い通路だった。さっきの東西の通りから、一本奥の通りまでぶち抜いているビルなのかも知れない。 
その鼻歌はなにか、酒に関する歌だった。どこかで聞いたことはあるが、世代の古い歌だったので、タイトルまでは思い出せなかった。 
なんだっけ? 
酒の、酒が、酒と。 
そんなことを考えていると、ふいに、頭に電流が走ったような衝撃があった。 
あ。 
そうか。 
違和感の正体が分かった。 
急に立ち止まった僕に、おっさんは振り返ると「どうした、にいちゃん」と声をかけてくる。 
そうか。あの時感じた違和感。おっさんが僕に顔を近づけて、あそこには目に見えない道がある、と言ったときの。 
あれは…… 
足が震え出した。そしてアルコールが頭から急に抜け始める。 
「どうしたぁ。先に行っちまうぞ」 
その暗い通路は左右を安っぽいモルタル壁に囲まれ、遠くの非常灯の緑色の明かりだけがうっすらと闇を照らしていた。 
おっさんはじりじりとして、一歩進んで振り返り、二歩進んで振り返り、という動きしている。 
僕はアルコールが抜けていくごとに体温も奪われていくのか、猛烈な寒気に襲われていた。 
そうだ。 
おっさんは、息がかかるほど顔を突き出したのに、酒の匂いがしなかった。あの赤ら顔で、千鳥足で、バーから出てきたばかりなのに。そのバーに、そもそもあのおっさんはいなかった。 
今日ハシゴした他の店にも。客からあの話を訊くことも目的だったので、すべての店でどんな客がいるか観察していたはずなのだ。 
なのに、おっさんは僕が空を歩く男の話を訊いて回っていたことを知っていた。まるで目に見えない客として、あのいずれかのバーにいたかのように。

「どうした」 
声が変わっていた。 
おっさんは冷え切ったような声色で、「きなさい」と囁いた。 
ガタガタ震えながら、首を左右に振る。 
通路の暗闇の奥で、おっさんの顔だけが浮かんで見える。 
沈黙があった。 
そうか。 
小さな声がすうっと空気に溶けていき、その顔がこちらを向いたまま暗闇の奥へと消えていった。 
それからどれくらいの時間が経ったのか分からない。 
金縛りにあったかのようにその場で動けなかった僕も、外から若者の叫び声が聞こえた瞬間に、ハッと我に返った。酔っ払った仲間がゲロを吐いた、という意味の、囃し立てるような声だった。 
僕は気配の消えた通路の奥に目を凝らす。 
そのとき、頬に触れるかすかな風に気がついた。その空気の流れは前方からきていた。 
三メートルほど進むと、その先には通路の床がなかった。一メートルほどの断絶があり、その先からまた通路が伸びていた。 
ビルとビルの隙間に、狭い路地があった。長く感じた通路は、一つのビルではなく二つのビルから出来ていた。 
崖になっている通路の先端には、手すりのようなものの跡があったが、壊されて原型を留めていなかった。向こう側の通路の先も同じような状態だった。 
知らずに手探りのまま足を踏み出していれば、この下の路地へ落下していただろう。四階の高さから。 
生唾を飲み込む。 
最後に「きなさい」と言ったおっさんの顔は、あの断絶の向こう側にあった。 
そうか。僕は導かれていたのだ。折り重なった、異なる世界へ。 
ビルとビルの狭間へ転落する僕。そして別の僕は、自分が死んだことにも気づかず、そのまま通路を通り抜け、導かれるままに秘密の道を潜り、あの空への道へと至るのだ。高層ビルの屋上から、足を踏み出し…… 
そこは壮観な世界だろう。 
遥か足元にはネオンの群れ。大小の雑居ビルのさらに上を通り、酔客たちの歩く頭上を、気分良く歩いて進む。 

夜の闇の中に、目に見えない一筋の道がある。それは折り重なった別の世界の住民だけにたどることの出来る道なのだ。 
はあ。 
闇の中に冷たい息を吐いた。 
僕はビルの階段を降り、通行人の減り始めた通りに立った。もう夜の底にわだかまった熱気が消えていく時間。人々がそれぞれの家へ足を向け、ねぐらへと帰る時間だ。遠くで二度三度と勢いをつけながらシャッターを閉めている音が聞こえる。 
そして僕は振り仰いだ星の見えない夜空に、空を歩く男の影を見た。 


「殺す気だったんですか」 
師匠にそう問い掛けた。 
そうとしか思えなかった。師匠はすべて知っていたはずなのだ。かつての死者が新しい死者を呼ぶ、空へ続く道の真相を。 
いくらなんでも酷い。 
そう憤って詰め寄ったが、そ知らぬ顔で「まあそう怒るな」と返された。 
「まあ、ちゃんと見たんだから合格だよ。優良可でいうなら、良をあげよう」 
なんだ偉そうにこの人は。ムカッとして思わず睨むと、逆に寒気のするような眼に射すくめられた。 
「じゃあ、優はなんだっていうんですか」 
僕がなんとか言い返すと、師匠は暗い、光を失ったような瞳をこちらに向けて、ぼそりと囁く。 
「わたしは、空を歩いたよ」 
そして両手を、両手を羽ばたくように広げて見せた。 
うそでしょう。そんな言葉を口の中で転がす。 
「臨死体験でもしたって言うんですか」 
僕が訊くと、師匠は「どうかな」と言って笑った。