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平日の昼間にその場所に立っていると変な感じだ。 
繁華街の中でも飲み屋の多いあたりだ。研究室やサークルの先輩につれられて夜にうろつくことはあったが、昼間はまた別の顔をしているように感じられた。 
表通りと比べて人通りも少なく、店もシャッターが閉まっている所が多い。道幅も狭く、少し寂しい通りだった。 
なるほど。どのビルも大通りにあるビルほどは高くない。良くて四階、五階というところか。

聞いた話から想像すると、この東西の通りの上空を斜めに横断する形で男は歩いている。恐らくは北東から南西へ抜けるように。 
その周囲を観察したが、特に人間と見間違えそうなアドバルーンや看板の類は見当たらなかった。 
当然昼間からそれらしいものが見えるわけもなく、僕は近くの喫茶店や本屋で日が暮れるまでの間、時間をつぶした。 
太陽が沈み、会社員たちが仕事を終えて街に繰り出し始めると、このあたりは俄かに活気づいてくる。店の軒先に明かりが灯り、陽気な話し声が往来に響き始める。 
その行き交う人々の群の中で一人立ち止まり、じっと空を見ていた。 
曇っているのか月の光はほとんどなく、夜空の向こうにそれらしい影はまったく見えなかった。 
仮に…… と想像する。 

この東西の通りでヘリウムが充満した風船を持ち、その紐が十メートル以上あったら。その風船が人間を模した形をしていたら。そして紐が一本ではなく両足の先に一本ずつそれぞれくっついていたとしたら。 
下から紐を操ることで人型の風船がまるで歩いているよう見えないだろうか。 
今日と同じように月明かりもなく、下から強烈に照らすような光源もなければ、周囲のビルよりも遥かに高い場所にあるその風船を、本物の人影のように錯覚してしまうことがあるのではないだろうか。 
その人影に気づいた人は驚くだろう。そしてそちらにばかり気をとられ、その真下の雑踏で不審な動きをしている人物には気づかないに違いない。 
誰がなぜそんなことを? という新たな疑問が発生するが、とりあえずはこれで再現が可能だという目星はついた。 
結局その後小一時間ほどうろうろしてから、飽きてしまったのでその日はそれで帰ったのだった。 
次の日、師匠にそのことを報告すると、呆れた顔をされた。 
「情報収集が足らないな」 
「え?」 
「風船かも知れないなんて、誰でも思いつくよ」 
師匠は自分のこめかみをトントンと指で叩いて見せる。 
「だいたい人影は最終的に通りのビルを越えてその向こうに消えてるんだ。下から操っている風船でどう再現する?」 

あ。 
そのことを失念していた。今さらそれを思い出して焦る。 
「ちゃんと噂を集めていけば、その人影を見た人間が呪われて、高い所から落ちて怪我をするというテンプレートな後日譚が、別の噂が変形して生まれたものだと気がつくはずなんだ」 
「別の噂?」 
空を歩く男の話にはいくつかのバージョンがあるのだろうか。 
「あの通りでは、転落死した人が多いんだよ。飲み屋街の雑居ビルばかりだ。酔っ払って階段から足を踏み外したり、低い手すりから身を乗り出して下の道路に落下したり。 
何年かに一度はそんなことがある。そんな死に方をした人間の霊が、夜の街の空をさまよっているんだと、そういう噂があるんだ」 
しまった。 
たった二人から聞いて、それがすべてだと思ってしまった。怪談話など、様々なバリエーションがあってしかるべきなのに。 
あと一度しか言わないぞ。 
そう前置きして、師匠は「空を歩く男をみてこい」と言った。 
「はい」情けない気持ちで、そう返事をするしかなかった。 


それから一週間、調べに調べた。 
最初に話を聞かせてくれた同じ一回生の子に無理を言って、その空を歩く男を見たという同級生に会わせてもらったり、他のつても総動員してその怪談話を知っている人に片っ端から話を聞いた。 
確かに師匠の言うとおり、あの辺りでは転落事故が多いという噂で、それがこの話の前振りとして語られるパターンが多かった。 
実際に自分が目撃したという人は、その最初の子の同級生だけだったが、あまり芳しい情報は得られなかった。 
夜にその東西の通りでふと空を見上げたときに、そういう人影を見てしまって怖かった、というだけの話だ。 
それがどうして男だと分かったのか、と訊くと『空を歩く男』の怪談を知っていたからだという。

最初から思い込みがあったということだ。暗くて遠いので顔までは当然見えないし、服装もはっきり分からなかった。ただスカートじゃなかったから…… 
そんな程度だ。見てしまった後に、呪いによる怪我もしていない。 
ただ記憶自体はわりとはっきりしていて、彼女自身が創作した線もなさそうだった。その正体がなんにせよ、彼女は確かになにかそういうものを見たのだろう。 
これはいったいなんだろうか。 
本物の幽霊だとしたら、どうしてそんな出方をするのだろう。地上ではなく、そんな上空にどうして? 
霊の道。 
そんな単語が頭に浮かんだ。霊道があるというのだろうか。なぜ、そんな場所に? 少しぞくりとした。見るしかない。自分の目で。考えても答えは出ない。 
僕はその通りに張り付いた。日暮れから、飲み屋が閉まっていく一時、二時過ぎまで。しかし同じ場所に張っていても、周囲を練り歩いても、それらしいものは見えなかった。 
焦りだけが募った。 
死者の気持ちになろうともしてみた。あんなところを歩かないといけない、その気持ちを。 
気持ちよさそうだな。 
思ったのはそれだけだった。 
目に見えない細い細い道が、暗い空に一本だけ伸びていて、その道から落ちないようにバランスをとりながら歩く…… 
落ちれば地獄だ。かつて自分が死んだ、汚れた雑踏へ急降下し、その死を再び繰り返すことになる。 
落ちてはいけない。 
では落ちなければ? 
落ちずに道を進むことができれば、その先には? 
人の世界から離れ、彼岸へ行くことができるということか。そんな寓意が垣間見えた気がした。 
その通りに張り付いて二日目。 
僕は少し作戦を変えて、飲み屋街のバーに客として入った。そこで店を出している人たちならば、この空を歩く男の噂をもっとよく知っているかも知れないと思ったのだ。 

仕送りをしてもらっている学生の身分だったので、あまり高い店には行けない。 
女の子がつくような店ではなく、カウンターがあって、そこに座りながらカクテルなどを注文し、飲んでいるあいだカウンター越しにマスターと世間話が出来る。そんな店がいい。 
このあたりでは居酒屋にしか入ったことがなかったので、行き当たりばったりだ。とにかくそれっぽい店構えのドアを開けて中に入った。 
薄暗い店内には古臭い横文字のポスターがそこかしこに張られていて、気取った感じもなくなかなか居心地が良さそうだった。控えめの音量でオールディーズと思しき曲がかかっている。 
お気に入りのコロナビールがあったのでそれを注文し、気さくそうな初老のマスターにこのあたりで起こる怪談話について水を向けてみた。 
聞いたことはある、という返事だったが実際に見たことはないという。入店したときにはいた、もう一人の客もいつの間にかいなくなっていたので、仕方なくビール一杯でその店を出る。 
それから何軒かの店をハシゴした。 
マスターやママ自身が見たことがある、という店はなかったが、従業員の中に一人だけ目撃者がいた。そしてそれとなく店内の常連客に話を振ってくれて、「そう言えば、昔見たことがあるなあ」という客も一人見つけることができた。 
しかし話を聞いても、どれも似たり寄ったりの話で、結局その空を歩く男の正体もなにも分からないままだった。 
せめて、どういう条件下で現れるのか推測する材料になれば良かったが、話を聞いた二人とも日付や天気の状況などの記憶が曖昧で、見た場所も人影が進んだ方角もはっきりとしなかった。 
ただ、夜中に足場もなにもない非常に高い上空を歩く人影を見た、ということだけが一致していた。そして特にその後、事故などには遭わなかったということも。 
一軒一軒ではそれほど量を飲まずに話だけ聞いて退散したのだが、聞き込みの結果が思わしくなく、ハシゴを重ねるごとに酔いが回り始めた。 
何軒目の店だったか、それも分からなくなり、かなり酩酊した僕がその地下にあったロカビリーな店を出た頃にはもう日付が変わっていた。 
「ちくしょう」

という、酔っ払いが良く口にする言葉を誰にともなく吐き出しながら、ふらふらと狭い階段を上り、地上に出る。 
空を見上げても暗闇がどこまでも広がっているだけで、何の影も見当たらなかった。そのときだった。 
「にいさん、にいさん」 
そう後ろから声を掛けられた。 
振り返ると、よれよれのジャケットを着た赤ら顔の男が手のひらでこちらを招く仕草をしている。 
「なんです」 
このあたりでは尺屋、という民家の一室を使った非合法の水商売があるのだが、一瞬、その客引きではないかと思ったが、しかしこう酔っ払っていては仕事になるまい。 
「さっき、中であの怪談の話をしてたろう」 
ああ、なんださっきの店にいた客か。しかしどうしてわざわざ店を出てから声をかけてくるんだ? 
そんなことを考えたが、それ以上頭が回らなかった。 
「だったら、なんれす」ろれつも回っていない。 
「知りてえか」 
「なにお」 
「空の、歩きかた」 
男は酒焼けしたような赤い顔を近づけてきて、確かにそう言った。 
「いいですねえ。歩きましょう!」 
「そうか。じゃあついてきな」 
ふらふらとしながら男は、まだ酔客の引かない通りを先導して歩き出した。五十歳くらい、いやもう少し上だろうか。 
変なおっさんだ。 
さっきロカビリーな髪型のマスターが他の客に声をかけても、誰もそんな怪談話を知らなかったのに。なんであのとき黙ってたんだ。あれ? そもそもあんなオッサン、店にいたかな。 
そんなことを考えていると、おっさんが急に立ち止まり、また顔を近づけてきてこう言った。 
「あそこにはな、道があるんだ。目に見えない道が。でも普通の人じゃあ、まずたどり着けないのさあ」