「座敷牢で死んだ伯父は密かに葬られたようですが、その後彼の怨念はこの地下室に満ち、そして六間の通路に溢れ出し、やがて本宅をも蝕んで多くの凶事、災いをもたらしたとされています」
師匠は机の上に積み重ねられた古文書を叩いて見せた。
その時、真奈美さんの顔色が変わった。そして自分の両手で肩を抱き、怯えた表情をして小刻みに震え始めたのだ。
「わたしが………… ぶつかったのは…………」
ごくりと唾を飲みながら硬直した顔から眼球だけを動かして、入ってきた狭い扉の方を盗み見るような様子だった。
その扉の先の、地下通路を目線の端に捕らえようとして、そしてそうしてしまうことを畏れているのだ。
師匠は頷いて一冊のノートを取り出した。
「あなたのお祖父さんも、何度か真っ暗なこの通路でなにか得体の知れないものにぶつかり、そのことに恐怖と興味を抱いて色々と調べていたようです。
このノートは失礼ながら読ませていただいたお祖父さんの日記です。
やはり座敷牢で狂死した先祖の存在に行き着いたようなのですが、その幽霊や怨念のなす仕業であるという結論に至りかけたところで筆をピタリと止めています」
師匠は訝しげな真奈美さんを尻目に立ち上がり、一夜にして散らかった土蔵の中を歩き回り始めた。
「この土蔵には確かに異様な気配を感じることがあります。お父さんなど、あなたのご家族も感じているとおりです。亡くなったお祖父さんもそのことをしきりと書いています。
気配。気配。気配…… しかしその気配の主の姿は誰も見ていません。なにかが起こりそうな嫌な感じはしても、この世のものではない誰かの姿を見ることはなかったのです。
ただ、暗闇の中で誰かにぶつかったことを除いて」
どこかで拾った孫の手を突き出して、たった一つの扉を指し示す。その向こうには白熱灯の明かりが照らす、地下の道が伸びている。明かりが微かに瞬いている。また、玉が切れかかっているのだ。
それに気づいた真奈美さんの口からくぐもったような悲鳴が漏れた。交換したばかりなのに、どうして。呆然とそう呻いたのだ。
「あなたのお祖父さんはこう考えました。本当にこの家を祟る怨念であれば、もっとなんらかの恐ろしいことを起こすのではないかと。
確かにそのようなことがあったとされる記録は古文書の中に散見されます。しかし今ではそれらしい祟りもありません。にも関わらず、依然として異様な気配が満ちていくような時があります。
これはいったいどういうことなのか。そう思っていた時、お祖父さんはある古文書の記述を見つけるのです」
師匠は文机に戻り、その引き出しから一冊の古びた本を取り出した。
「これは、お祖父さんが見つけたもので、死んだ座敷牢の住人を葬った、当主の弟にあたる人物が残した記録です」
やけにしんなりとした古い紙を慎重に捲りながら、ある頁に差し掛かったところで手を止める。
「彼はこの文書の中で、伯父の無残な死の有り様を克明に描写しているのですが、その死の間際にしきりに口走っていたという言葉も書き記しています。ここです」
真奈美さんの方を見ながら、確かめるようにゆっくりと指を紙の上に這わせた。
「ここにはこう書いています。『誰かがいる。誰かがいる』と」
その時、すぅっ、と扉の向こうの地下道から明かりが消えた。
真奈美さんは身体を震わせながら地下道への扉と、師匠の掲げる古文書とを交互に見やっている。泣き出しそうな顔で。
「あなたにぶつかったのは、誰だかわからない誰か…… あなたのお祖父さんも言っていたように、わたしのたどり着いた結論もそれです。それ以上のことを、どうしても知りたいのですか?」
師匠は静かにそう言って真奈美さんの目を正面から見つめた。
淡々と語り終えた師匠の声の余韻が微かに耳に残る。
俺は鼻を摘まれても分からない暗闇の中で、ぞくぞくするような寒気を感じていた。
そしてまた声。
「土蔵から出ようとした時、地下道の白熱灯は消えたままだった。土蔵の中はたよりない燭台の明かりしかなかったので、入り口のそばの照明のスイッチを押したが、なぜかそれまでつかなかった。
カチカチという音だけが響いて、地の底で光を奪われる恐怖がじわじわと迫ってきた。代真奈美さんが持ってきていた懐中電灯で照らしながら進もうとしたら、いきなりその明かりまで消えたんだ。
叩いても、電池をぐりぐり動かしてもダメ。地面の底で真っ暗闇。さすがに気持ちが悪かったね。で、悲鳴を上げる真奈美さんをなだめて、なんとか手探りで進み始めたんだ。
怖くてたまらないって言うから、手を握ってあげた。最初の角を右に曲がってすぐにまた左に折れると、あとほんの五メートルかそこらで本宅の地下の物置へ通じる階段にたどり着くはずだ。
だけど…… 長いんだ。やけに。暗闇が人間の時間感覚を狂わせるのか。それでもなんとか奥までたどり着いたさ。突き当たりの壁に。壁だったんだ。そこにあったのは。
階段がないんだよ。上りの階段が。暗闇の中で壁をペタペタ触ってると、右手側になにか空間を感じるんだ。手を伸ばしてみたら、なにもない。通路の右側の壁がない。
そこは行き止まりじゃなく、角だったんだ。ないはずの三つ目の曲がり角。さすがにやばいと思ったね。真奈美さんも泣き喚き始めるし。泣きながら、『戻ろう』っていうんだ。
一度土蔵の方へ戻ろうって。そう言いながら握った手を引っ張ろうとした。その、三つ目の曲がり角の方へ。わけが分からなくなってきた。戻るんなら逆のはずだ。
回れ右して真後ろへ進まなくてはならない。なのに今忽然と現れたばかりの曲がり角の先が戻る道だと言う。彼女が錯乱しているのか。わたしの頭がどうかしてるのか。なんだか嫌な予感がした。
いつまでもここにいてはまずい予感が。真奈美さんの手を握ったまま、わたしは言った。『いや、進もう。土蔵には戻らないほうがいい』 それで強引に手を引いて回り右をしたんだ。
回れ右だと、土蔵に戻るんじゃないかって? 違う。その時わたしは直感した。
どういうわけかわからないが、わたしたちは全く光のない通路で知らず知らずのうちにある地点から引き返し始めていたんだ。三つ目の曲がり角はそのせいだ。
本宅と土蔵をつなぐ通路には、どちらから進んでも右へ折れる角と左へ折れる角が一つずつしかない。そしてその順番は同じだ。最初に右、次に左だ。
土蔵から出たわたしたちはまず最初の角を右、次の角を左に曲がった。そして今、さらに右へ折れる角にたどり着いてしまった。
通路の構造が空間ごと捻じ曲がってでもいない限り、真っ直ぐ進んでいるつもりが、本宅側の出口へ向かう直線でUターンしてしまったとしか考えられない。心理の迷宮だ。
だったらもう一度回れ右をして戻れば、本宅の方へ帰れる。『来るんだ』って強引に手を引いてね、戻り始めたんだよ。ゆっくり、ゆっくりと。壁に手を触れたまま絶対に真っ直ぐ前に進むように。
その間、誰かにぶつかりそうな気がしていた。誰だかわからない誰かに。でもそんなことは起こらなかった。わたしがこの家の人間じゃなかったからなのか。でもその代わりに奇妙なことが起きた。
土蔵に戻ろう、土蔵に戻ろうと言って抵抗する真奈美さんの声がやけに虚ろになっていくんだ。ぼそぼそと、どこか遠くで呟いているような。そして握っている手がどんどん軽くなっていった。
ぷらん、ぷらんと。まるでその手首から先になにもついていないみたいだった。楽しかったね。最高の気分だ。笑ってしまったよ。そうして濃霧を振り払うみたいに暗闇を抜け、階段にたどり着いた。
上りの階段だ。本宅へ戻ったんだ。真奈美さんの手の感触も、重さもいつの間にか戻っていた」
チリチリ……
黒い布の下でオイルランプが微かな音を立てている。酸素を奪われて呻いているかのようだ。
奇妙な出来事を語り終えた師匠は口をつぐむ。僕の意識も暗闇の中に戻される。息苦しい。
「その依頼は結局どうなったんです」
口を閉じたままの闇に向かって問い掛ける。
「分からないということが分かったわけだから、達成されたことになる。正規の料金をもらったよ。まあ、金払いの悪いような家じゃないし。それどころか、料金以外にも良い物をもらっちゃった」
ガサガサという音。
「あった。土蔵で見つけたもう一つの古文書だよ」
何かが掲げられる気配。
「これは、そこに存在していたこと自体、真奈美さんには教えていない。彼女の祖父はもちろん知っていたようだけど」
それはもらったんじゃなくて勝手に取ってきたんじゃないか。
「なんですかそれは」
「なんだと思う?」
くくく……
闇が口を薄く広げて笑う。
「座敷牢に幽閉されていたその男自身が記した文書だよ」
紙をめくる音。
「聡明で明瞭な文章だ。あの土蔵で起こったことを克明に記録している。明瞭であるがゆえに、確かに『ものぐるいなりけり』と言うほかない。それほどありえないことばかり書いている。
彼は三日に一度、寝ている間に右手と左手を入れ替えられたと言っている。何者かに、だ。左腕についている右手の機能について詳細に観察し、記述してある。
それだけじゃない。ある時には、右手と左足を。ある時には、右足と首を。そしてまたある時には文机の上の蝋燭と、自分の顔を、入れ替えられたと書いている」
師匠の言葉に、奇怪な想像が脳裏をよぎる。
「わたしがこの古文書を持ち出したのは正しかったと思っている。危険すぎるからだ。これがある限り、あの家の怪異は終わらないと思う。そしてなにかもっと恐ろしいことが起こった可能性もある。
その座敷牢の住人は、最後には自分の顔と書き留めてきた記録とを入れ替えられたと言っている」
書き留めてきた記録? それは今師匠が手にしているであろう古文書のことではないのか。
「そうだ。彼はそこに至り、ついに自分の書き記してきた記録を破棄しようとした。忌まわしきものとして、自らの手で破こうとしたんだ。最後に冷静な筆致でそのことが書かれている。
それは成功したのだろうか。彼は顔の皮を自分で引き剥がして死んでいる。彼が破いたものはいったいなんだったのか。そして、現代にまで残るこの古文書は、いったい……」
ゆがむ。闇がゆがむ。
異様な気配が渦を巻いている。
「それからだ。わたしはよくぶつかるようになった。あの地下道ではなく、明かりを消した自分の部屋や、その辺のちょっとした暗がりで。誰だかわからない誰かと……」
ぐにゃぐにゃとゆがむ闇の向こうから、師匠の声が流れてくる。いや、それは本当に師匠の声なのか。
川沿いに立つ賃貸ガレージの中のはずなのに、地面の下に埋もれた空洞の中にいるような気がしてくる。
「そこで立って歩いてみろよ」
囁くようにそんな声が聞こえる。
僕は凍りついたように動かない自分の足を見下ろす。見えないけれど、そこにあるはずの足を。
今は無理だ。
ぶつかる。ぶつかってしまう。
ここがどこだかも分からなくなりそうな暗闇の中、誰だか分からない誰かと。
そんな妖しい妄想に囚われる。
沈黙の時間が流れ、やがて目の前にランプの明りが灯される。覆っていた布を取が取り払われたのだ。黒い墓石に腰掛ける師匠の手にはもう古文書は握られていない。
「この話はおしまいだ」
指の背を顎の下にあて、挑むような目つきをしている。
そして口を開き「おじいちゃんじゃないかな、と言えばこんな話もある」と次の話を始めた。その言葉に反応したように、またまた別の不気味な気配がガレージの隅の一角から漂い始める。
降り積もるように静かに夜は更けていった。
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