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頼りなくまたたいている明かりの下、最初の曲がり角を越えると土蔵の入り口が見えた。そろそろと歩み寄り、小さな鉄製の扉を手前に引く。 
きぃ…… 
耳障りな音がして、同時に真っ暗な扉の奥からどこか生ぬるいような空気が漏れ出てくる。扉は狭く、それほど大柄でもない真奈美でも、身を屈めないと入ることが出来ない。 
真奈美は身体を半分だけ扉の中に入れ、腕を回りこませて壁際を探る。白熱灯の光が、暗かった土蔵の中に広がった。ホッと人心地がつく。 
もはやそれを手に取る主のいない骨董品や古民具の類が、四方の壁に並べられた棚や箪笥の上にひっそりと置かれている。 
本当に値打ちのあるものは終戦の前後に処分したと聞いているので、今残っているのはそれを代々受け継いできた自分たちの一族にしか価値のないもののはずだった。 
真奈美は懐から写真を取り出す。ご丁寧にも叔父が、くだんの茶壷が紹介された雑誌の切抜きを送ってきたのだった。 
それと見比べながら、壷などが並べられている一角を往復していると、どうやらこのことらしい、というものを見つけることが出来た。 
なるほど、形や色合いは確かに似ている。しかし手に取ってみるとやけに軽く、まじまじと表面を眺めると造作も安っぽく思われた。 
やはり叔父の思い違いだ。そう思うと少し楽しくなった。 

茶壷を片手に、唯一の出入り口へ向かう。狭い扉をなんとか潜ると、一瞬心の中が冷えた気がした。 
通路の白熱灯が切れている。 
漆喰に囲まれた道の先が闇に飲まれるように見通せなくなっている。消そうとした土蔵の中の明かりはつけたままにしたが、それでも小さな扉から漏れてくる光はあまりにか細かった。 
いやだ。 
ここが地の底なのだということを思い出してしまった。こんな時のために土蔵の中に懐中電灯を置いてなかっただろうか。振り返って探しに戻ろうかと思ったが、面倒な気がして止めた。 
たかだか十メートルていどの通路だ。障害物もない一本道だし、自分ももう子どもではないのだから、なにをそんなに怖がることがあるだろう。

我知らず自分にそう言い聞かせ、真奈美は茶壷を胸に抱えて進み始めた。静かだ。耳の奥に静寂が甲高い音を立てている。 
ほんの数メートル歩くと曲がり角があった。そこを右に曲がると、今度はすぐに左へ折れる。そこから先は直進するだけで元の入り口だ。けれど、そっと覗いたその先は光の届かない真っ暗闇だった。 
ぞくりと肌が粟立つ。 
口元が強張りそうになるのを必死で抑え、なるべく自然な歩調で前へ進んだ。左手を壁に沿わせながら、真っ直ぐに。 
なんてことはない。なんてことはない。暗くたって大丈夫。 
ほら。すぐに元の入り口だ。 

ドシン 

え…… 
ぶつかった。 
誰かに。うそ。 
全身に寒気が走った。 
暗くて何も見えない。そこに誰がいるのかも分からない。 
気配だけが通り過ぎていく。土蔵の方へ向かっているようだ。 
真奈美はその場に根を張りそうだった足を叱咤して、小走りに入り口の階段の下まで進んだ。 
そこまで来ると、頭上から微かな明かりが漏れてきていた。茶壷を抱えたまま階段を上り、ようやく物置部屋まで戻ってきた。 
ここもまだ地下なのだと思うと、後ろも振り返らずに部屋を横断して一階へ上がる階段を駆けのぼった。 
階段を上がった先にある居間では、父と母がテーブルを囲んでお茶を飲んでいた。 
「お。あったか。お宝が」 
こちらを見ながら、のん気そうに父がそう言った。 
「ねえ、ここ今誰か降りてった?」 
真奈美が早口にそう訊くと、父と母は怪訝そうな顔をしてかぶりを振った。 
「貴子は?」続けて訊こうとしたが、隣の部屋からテレビの音とともに、その妹の笑い声が聞えてきた。

悪寒がする。 
家政婦の千鶴子さんは今日は来ない日だ。そして祖母は風邪を引いて一昨日から入院中だった。いつものことで、大した風邪ではないのだが。 
ではさっき地下の通路でぶつかったのは誰なのか。 
「ちょっと、気持ち悪いこと言わないでよ」 
母が頬を引きつらせながら、無理に笑った。 
「泥棒か?」 
父が気色ばんで椅子から立ち上がろうとしたが、母が困ったように半笑いをしながらそれを諌める。 
「ちょっと、お父さんも。わたしたち、ずっとここにいたじゃない」 
そうして地下の物置へ降りる階段を指さす。 
そうだ。物置には他に出入り口はない。父と母がずっといたこの居間からしか。その二人が見ていないのだ。誰も降りられたはずはない。ではさっき暗闇の中でぶつかったのは誰なのだ。 
誤って壁にぶつかったのではない。壁にはしっかりと左手をついて歩いていたのだから。 
震えてしゃがみ込んだ真奈美の背中を母がさすり、父は騒ぎを聞きつけて居間にやってきた貴子と二人で懐中電灯を手に地下に降りていった。 
結局、小一時間ほど地下の物置と通路、そしてその先の土蔵をしらみつぶしに探索したが、異変はなにも見つからなかった。家族以外の誰かがいたような痕跡も。 
最後に地下通路の白熱灯の玉を交換してきた父が、疲れたような表情で居間に戻ってくると家族四人がテーブルに顔をつき合わせて座った。 
そして沈黙に耐えられなくなったように、妹の貴子が口を開いた。 
「実はあたしもぶつかったこと、ある」 
驚いた。さっき起きたことと全く同じような出来事が二年ほど前にあったと言うのだ。妹の場合は何の前触れもなく地下の明かりが消え、手探りで通路を引き返そうとしたら、得体の知れない『なにか』に肩が触れたのだと。 

さらに驚いたことに、それから父と母も気持ちが悪そうにしながら、それぞれ似た体験をした話を続けた。数年前の話だ。 
みんな気のせいだと思い込むようにしていたのだった。そんなことがあるわけはないと。しかしこうして家族が誰も同じ体験をしていると知った今、ただの気のせいで済むはずはなった。 
「お祓い、してもらった方がいいかしら」 
母がおずおずとそう切り出すと、父が「なにを馬鹿な」と怒りかけ、しかしその勢いもあっさりとしぼんだ。みんな自分の身に起きた体験を思い出し、背筋を冷たくさせていた。 
そんな中、妹の貴子がぽつりと言った。 
「おじいちゃんじゃないかな」 
「え?」 
「いや、だから、あそこにいたの、おじいちゃんじゃないかな」 
地下の暗闇の中でぶつかったのは十五年前に死んだ祖父ではないかと言うのだ。 
その言葉を聞いた瞬間、父と母の顔が明るくなった。 
そのくせ口調はしんみりとしながら、「そうね。おじいちゃんかも知れないわね」「そうか。親父かも知れないな。親父は土蔵のヌシだったからな」と頷き合っている。 
確かに祖父はあの土蔵が第二の家だと言っても過言ではないほどそこへ入り浸っていたし、死んだ後は自分の骨もそこへ葬ってくれと願ったのだ。 
そして実際に遺骨の一部は小さな骨壷に納められて土蔵の隅に眠っている。 
「おじいちゃんか」 
真奈美もそう呟いてみる。皺だらけの懐かしい顔が脳裏に浮かんだ。 
そして祖父との思い出の断片がさらさらと自然に蘇ってくる。 
「おじいちゃん……」貴子が涙ぐみながら笑った。 
幽霊を恐ろしいと思う気持ちより、優しかった祖父の魂が今もそこにいるのだと思う、やわらかな気持ちの方が勝っていたのだった。さっきまでの凍りついたような空気がほんのりと暖かくなった気がした。 
しかし。 
祖父の思い出を語り始めた父と母と妹を尻目に、真奈美は自分の中に蘇った奇妙な記憶に意識を囚われていた。

あれは真奈美がまだ小学校に上がったばかりのころ。いつものように祖父に本を読んでもらおうと、あの薄暗い地下の道を通って土蔵へやってきた時のことだ。 
文机に向かって古文書のようなものを熱心に読んでいた祖父が、真奈美に気づいて顔を上げた。そして手招きをしてかわいい孫を膝の上に座らせ、あやすように身体を揺すりながらぽつりと言った。 
『誰かにぶつからなかったかい?』 
幼い真奈美は顔を祖父の顔を見上げ、そこに不可解な表情を見た。頬は緩んで笑っているのに、目は凍りついたように見開かれている。 
『ぶつかるって、だれに?』 
真奈美はこわごわとそう訊き返した。 
祖父は孫を見下ろしながら薄い氷を吐くように、そっと囁いた。 
『誰だかわからない誰かにだよ……』 

           ◆ 

オイルランプの明かりに照らされ、加奈子さんの顔が闇の中に浮かんでいる。黒い墓石の上に腰掛けたまま、足をぶらぶらと前後に揺らしながら。
「それで真奈美さんは我が小川調査事務所に依頼したわけだ。人づてに、『オバケ』の専門家がいるって聞いて」 
「どんな、依頼なんです」 
「調査に決まってるだろう。その誰だかわからない誰かが、誰なのかってことをだ」 
加奈子さんは背後の木箱の中から黒い厚手の布を取り出し、ランプの上に被せた。その瞬間、辺りが完全な暗闇に覆われる。 
締め切られたガレージの中は、夜の中に作られた夜のようだ。 
うつろに声だけが響く。 
「昔の飛行機乗りは、ファントムロックってやつを恐れたらしい。機体が雲の中に入ると一気に視界が利かなくなる。でもしょせん雲は微小な水滴の塊だ。 
その中で、『なにか』にぶつかることなんてない。ないはずなのに、怖いんだ。見えないってことは。

白い闇の中で、目に見えない一寸先に自分と愛機の命を奪う危険な物体が浮かんでいるのではないか…… その想像が、熟練の飛行機乗りたちの心を苛むんだ。 
その雲の中にある『なにか』がファントムロック、つまり『幻の岩』だ。自転車に乗っていて、目を瞑ったことがあるかい。 
見通しのいい一本道で、前から人も車もなにもやってきていない状態で、自転車を漕ぎながら目を閉じるんだ。さっきまで見えていた風景から想像できる、数秒後の道。 
絶対に何にもぶつかることはない。ぶつかることなんてないはずなのに、目を閉じたままではいられない。必ず恐怖心が目を開けさせる。人間は、闇の中に『幻の岩』を夢想する生き物なんだ」 
くくく、と笑うような声が僕の前方から漏れてくる。 
では、その旧家の地下に伸びる古い隧道で起きた出来事は、いったいなんだったのだろうね? 
師匠は光の失われたガレージの中でその依頼の顛末を語った。 
真奈美さんはそんなことがあった後、地下通路でぶつかったのは死んだ祖父なのだと結論付けた他の家族に、祖父自身もそれを体験したらしいということを告げずにいた。 
そして自分以外の家族が旅行などで全員家から出払う日を選んで、小川調査事務所の『オバケ』の専門家である師匠を呼んだのだ。 
ここで言う『オバケ』とはこの界隈の興信所業界の隠語であり、不可解で無茶な依頼内容を馬鹿にした表現なのだが、師匠はその呼称を楽しんでいる風だった。 
真奈美さんからも「オバケの専門家だと伺いましたが」と言われ、苦笑したという。 
ともあれ師匠は真奈美さんの導きで、本宅の地下の物置から地下通路に入り、その奥の土蔵に潜入した。その間、なにか異様な気配を感じたそうだが、何者かの姿を見ることはなかった。 
土蔵には代々家に伝わる古文書の類や、真奈美さんの祖父がそれに関して綴った文書が残されていた。今の家族には読める者がいないというその江戸時代の古文書を、師匠は片っ端から読んでいった。 
かつてそうしていたという真奈美さんの祖父にならい、一人で土蔵に篭り、燭台の明かりだけを頼りに本を紐解いていったのだ。 
そしてその作業にまる一晩を費やして、次の日真奈美さんを呼んだ。

「結論から言うと、わかりません」 
「わからない、というと……」 
「あなたがその先の地下通路でぶつかったという誰かのことです」 
文机の前に座ったまま向き直った師匠がそう告げると、真奈美さんは不満そうな顔をした。霊能力者という触れ込みを聞いて依頼をしたのに、あっさりと匙を投げるなんて。そういう言葉を口にしようとした彼女を、師匠は押しとどめた。 
「まあわかった部分もあるので、まずそれを聞いてください。これは江戸後期、天保年間に記された当時のこの家の当主の覚え書きです」 
師匠はシミだらけの黄色く変色した書物を掲げて見せた。 
「これによると、彼の二代前の当主であった祖父には息子が三人おり、そのうちの次男が家督を継いでいるのですが、それが先代であり彼の父です。 
そして長子継続の時代でありながら家督を弟に譲った形の長男は、ある理由からこの土蔵に幽閉されていたようなのです」 
「幽閉、ですか」 
真奈美さんは眉をしかめる。 
「あなた自身おっしゃっていたでしょう。かつてここには座敷牢があったと。家の噂話のような伝でしたが、それは史実のようです。 
この地下の土蔵……いえ、そのころは地上部分があったので、土蔵の地下という方が正確かも知れません。ともかく土蔵の地下にはその長男を幽閉するために作られた座敷牢がありました。 
その地下空間は座敷牢ができる前から存在していましたが、もともとなんのための地下室なのかは不明なようです。 
この覚え書きを記した当主は、自分の伯父にあたる人物を評して、『ものぐるいなりけり』としています。気が狂ってしまった一族の恥を世間へ出すことをはばかった、ということでしょう。 
結局、座敷牢の住人は外へ出ることもなく、牢死します。その最後は自分自身の顔の皮をすべて爪で引き剥がし、血まみれになって昏倒して果てたのだと伝えられています」 
遠い先祖の悲惨な死に様を知り、真奈美さんは息を飲んだ。それも、自分は今その血の流れた場所にいるのだ。不安げに周囲を見回し始める。