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「二年くらい前だったかな。ある旧家のお嬢さんからの依頼で、その家に行ったことがあってな」 
オイルランプが照らす暗闇の中、加奈子さんが囁くように口を動かす。 
「その家はかなり大きな敷地の真ん中に本宅があって、そこで家族五人と住み込みの家政婦一人の計六人が暮してたんだ。家族構成は、まず依頼人の真奈美さん。 
彼女は二十六歳で、家事手伝いをしていた。それから妹の貴子さんは大学生。あとお父さんとお母さん、それに八十過ぎのおばあちゃんがいた。 
敷地内にはけっこう大きな離れもあったんだけど、昔よりも家族が減ったせいで物置としてしか使っていないらしかった。その一帯の地主の一族でね。 
一家の大黒柱のお父さんは今や普通の勤め人だったし、先祖伝来の土地だけは売るほどあるけど生活自体はそれほど裕福というわけでもなかったみたいだ。 
その敷地の隅は駐車場になってて、車が四台も置けるスペースがあった。今はそんな更地だけど、戦前にはその一角にも屋敷の一部が伸びていた」 
蔵がね…… 
あったんだ。 
ランプの明かりが一瞬、ゆらりと身をくねらせる。 

大学二回生の夏だった。 
その日僕はオカルト道の師匠である加奈子さんの秘密基地に招かれていた。 
郊外の小さな川に面した寂しげな場所に、貸しガレージがいくつも連なっており、その中の一つが師匠の借りているガレージ、すなわち秘密基地だった。 
そこには彼女のボロアパートの一室には置けないようなカサ張るものから、別のおどろおどろしい理由で置けない忌まわしいものなど、様々な蒐集品が所狭しと並べられていた。

その量たるや想像以上で、ただの一学生が集めたとは思えないほどだった。興信所のバイトでそこそこ稼いでいるはずなのに、いつも食べるものにも困っているのは明らかに
このコレクションのためだった。 
扉の鍵を開けてガレージの中に入る時、師匠は僕にこう言った。「お前、最近お守りをつけてたろ」 
「はい」胸元に手をやる。 
すると師匠は手のひらを広げて「出せ」と命じた。 
「え? どうしてです」 
「そんな生半可なものつけてると、逆効果だ」 
死ぬぞ。 
真顔でそんなことを言うのだ。たかが賃貸ガレージの中に入るだけなのに。僕は息を飲んでお守りを首から外した。 
「普通にしてろ」 
そう言って扉の奥へ消えて行く師匠の背中を追った。 
どぶん。 
油の中に全身を沈めたような。 
そんな感覚が一瞬だけあり、息が止まった。やがてその粘度の高い空間は、様々に折り重なった濃密な気配によって形作られていると気づく。 
見られている。そう直感する。 
真夜中の一時を回ったころだった。ガレージの中には僕と師匠以外、誰もいない。それでもその暗闇の中に、無数の視線が交差している。 
例えば、師匠の取り出した古いオイルランプの明かりに浮かび上がる、大きな柱時計の中から。綺麗な刺繍を施された一つの袋を描いただけの絵から。あるいは、両目を刳り貫かれたグロテスクな骨格標本からも。 
「まあ座れ」 
ガレージの中央にわずかにあいたスペースにソファが置かれている。師匠はそこを指さし、自身はそのすぐそばにあった真っ黒な西洋風の墓石の上に片膝を立てて腰掛けた。墓石の表面には、人の名前らしき横文字が全体を覆い尽くさんばかりにびっしりと彫り込まれている。 
どれもこれも、ただごとではなかった。このガレージの中のものはすべて。どろどろとした気配が、粘性の気流となって僕らの周囲を回っている。

師匠がこの中から、世にも恐ろしい謂れを持つ古い仮面を出してきたのはつい先日のことだった。 
あんな怖すぎるものが、他にもたくさんあるのだろうか。 
恐る恐るそう訊いてみると、師匠は「そういや、言ってなかったな」と呟いて背後に腕を伸ばし、一つの木箱を引っ張り出した。見覚えがある。その古い仮面を収めていた箱だ。 
もうあんな恐ろしいものを見たくなかった僕は咄嗟に身構えた。しかし師匠は妙に嬉しそうに木箱の封印を解き、その中身をランプの明かりにかざす。 
「見ろよ」 
その言葉に、僕の目は釘付けになる。箱の中の仮面はその鼻のあたりを中心に、こなごなに砕かれていた。 
「凄いだろ」 
なぜ嬉しそうなのか分からない。「洒落になってないですよ」ようやくそう口にすると、「そうだな」と言ってまた木箱の蓋を戻す。 
師匠自身が『国宝級に祟り神すぎる』と評したモノが壊れた。いや、自壊するはずもない。壊されたのだ。鍵の掛かったガレージの中で。一体なにが起こったのか分からないが、ただごとではないはずだった。 
「これと相打ち、いやひょっとして一方的に破壊するような何かが、この街にいるってことだ」 
怖いねえ。 
師匠はそう言って笑った。そして箱を戻すと、気を取りなおしたように「さあ。なにか楽しい話でもしよう」楽しげに笑う。 
それからいくつかの体験談を語り始めたのだ。もちろん怪談じみた話ばかりだ。 
最初の話は興信所のバイトで引き受けた、ある旧家の蔵にまつわる奇妙な出来事についてだった。 

            ◆ 

かつて、本宅とその脇に立つ大きな土蔵との間には二つの通路があった。一つは本宅の玄関横から土蔵の扉までの間の六間(ろっけん)ほどの石畳。

そしてもう一つは本宅の地下から土蔵の地下へと伸びる、同じ距離の狭く暗い廊下。 
何故二つの道を作る必要があったのかは昭和に暦が変わった時点ですでに分からなくなっていた。 
ただかつて土蔵の地下には座敷牢があり、そこへ至る手段は本宅の地下にあった当主の部屋の秘密の扉だけだったと、そんな噂が一族の間には囁かれていた。 
「あながち嘘じゃないと思うがな」 
真奈美の父はよくそんなことを言って一人で頷いていた。 
「あそこにはなんだか異様な雰囲気があるよ」 
家族の中で、土蔵の地下へ平気で足を踏み入れるのは祖父だけだった。 
かつて当主の部屋があったという本宅の地下も、今やめったに使うことのないものばかりを押し込めた物置になっている。 
その埃を被った家具類に覆い隠されるように土蔵の地下へと続く通路がひっそりと暗い口を開けていた。 
そこを通り抜けると、最後は鉄製の門扉が待っていて、錆びて酷い音を立てるそれを押し開けると、再び様々な物が所狭しと積み重ねられた空間に至る。 
座敷牢があった、とされるその場所も今では物置きとして使われていた。ただ、本宅の地下と違い、本来蔵に納められるべき、古い家伝の骨董品などが置かれていたのだ。 
土蔵の地上部分は戦時中の失火により焼け落ち、再建もせずにそのまま更地にしてしまっていた。 
元々構造が違ったためか、地下は炎の災禍を免れ、そして地上部分に保管されていた物を、すでにその時使われていなかったその地下に移し変えたのだった。 
一階部分が失われ、駐車場にするため舗装で塗り固められてしまったがために、その地下の土蔵に出入りするには、本宅の地下から六間の狭い通路を通る以外に道はなかった。 
真奈美の祖父はその地下の土蔵を好み、いつも一人でそこに篭っては、燭台の明かりを頼りに古い書物を読んだり、書き物をしたりしていた。 
真奈美はその土蔵が怖かった。父の言う、『異様な雰囲気』は確かに感じられたし、土蔵へ至るまでの暗く狭い通路も嫌で堪らなかった。 
距離にしてわずか十メートルほどのはずだったが、時にそれが長く感じることがあった。途中で通路が二回、稲妻のように折れており、先が見通せない構造になっているのが、余計に不安を掻き立てた。 

本宅から向かうと、まず右に折れ、すぐに左に折れるはずだった。しかし、一族の歴史の暗部に折り重なる、煤や埃が充満したその通路は、真奈美の幼心に幻想のような記憶を植え付けていた。 
右に折れ、左に折れ、次にまた右に折れる。 
ないはずの角がひとつ、どこからともなく現れていた。 
怖くなって引き返そうとしたら、行き止まりから右へ通路は曲がっていた。さっき右に折れたばかりなのに、戻ろうとすると、逆向きになっているのだ。 
その時、どうやって外へ出たのか。何故か覚えてはいなかった。 
そればかりではない。たった十メートルの通路を通り抜けるのに、十分以上の時間が経っていたこともあった。幼いころの記憶とは言え、そんなことは一度や二度ではなかった。 
そんな恐ろしい道を潜って、何故土蔵へ向かうのか。それは祖父がそこにいたからだ。真奈美はその変わり者の祖父が好きで、地下の土蔵で読書をしているのを邪魔しては、お話をせがんだり、お菓子をせがんだりした。 
祖父も嫌な顔一つせず、むしろ相好を崩して幼い真奈美の相手をしてくれた。 
その祖父は真奈美が小学校五年生の時に死んだ。胃癌だった。 
死ぬ間際、もはやモルヒネも効かない疼痛の中、祖父がうわ言のように願ったのは、自分の骨をあの地下の土蔵に納めてくれ、というものだった。 
祖父が死に、残された親族で相談した結果、祖父の身体は荼毘に付した後、先祖代々の墓に入った。ただ、その骨のひと欠片を小さな壷に納めて土蔵の奥にひっそりと仕舞ったのだった。 
それ以来、土蔵の地下はよほどのことがない限り家族の誰一人として足を踏み入れない、死せる空間となった。 
先祖代々伝わる書物や骨董品の類は、それらすべてが祖父の死の副葬品となったかのように、暗い蔵の中で眠っている。 
墳墓。 
そんな言葉が思い浮かぶ場所だった。 

祖父の死から十五年が経った。 
その日、真奈美は半年ぶりにその地下の土蔵へ足を運ぶ羽目になっていた。叔父が、電話でどうしてもと頼むので仕方なくだ。

どうやら何かのテレビ番組で、江戸時代のある大家の作った茶壷が高値で落札されているのを見たらしい。 
その茶壷とそっくりなものを、昔その土蔵で見たことがある気がするというのだ。 
今は県外に住んでいる叔父は、お金に意地汚いところがあり真奈美は好きではなかったのだが、とにかくその茶壷がもし大家の作ったものだったとしたら親族会議モノだから、とりあえず探してくれ、と一方的に言うのだ。 
親族会議もなにも、家を出た叔父になんの権利があるのか、と憤ったが、父に言うと「どうせそんな凄い壷なんてないよ。あいつも勘違いだと分かったら気が済むだろう」と笑うのだ。 
それで真奈美は土蔵へ茶壷を探しに行かされることになったのだった。 
本宅の地下に降り、黄色い電燈に照らされた畳敷きの部屋を通って、その奥にある小さな出入り口に身体を滑り込ませる。 
そこから通常の半分程度の長さの階段がさらに地下へ伸びており、降りた先に土蔵へと伸びる通路があった。饐えたような空気の流れが鼻腔に微かに感じられる。 
手探りで電燈のスイッチを探す。指先に触ったものを押し込むと、ジン……という音とともに白熱灯の光が天井からのそりと広がった。 
壁を漆喰で固められた薄暗い通路は、なにかひんやりとしたものが足元から上ってくるようで薄気味悪かった。かつてはランプや手燭を明かりにしてここを通ったそうだが、今では安全のために電気を通している。 
だが湿気がいけないのか、白熱灯の玉がよく切れた。そのたびに父や自分が懐中電灯を手に、薄気味悪い思いをしながら玉の交換をしたものだった。 
今も真奈美の頭上で、白熱灯のフィラメントがまばたきをしている。 
いやだ。まただわ。戻ったら、父に直してもらうように言わなければ…… 
今の家政婦の千鶴子さんは、どうしてもこの地下の通路には入りたくない、と言ってはばからなかった。 
『わたし、昔から霊感が強いたちでして、あそこだけはなんだかゾッとしますのよ』 
そう言って身震いしてみせるのだ。おかげでこの通路とその先の土蔵の最低限の掃除は家族が交代でやることになっていた。