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そのとき、強い風が吹いて全員の髪の毛をなぶった。髪の短い方が、その髪を手で押さえながら、不快げに眉間を寄せる。 

「おいおい、あのときの覗き魔かよ。憑りつかれてるのか思ったのに、仲良しこよしじゃないか!」 

一人で笑っている師匠に、女の子たちの空気が凍りついた。 

「なにを言っているの」 

髪の短い方が冷淡に言い放つ。 

「なにって、しらばっくれるなよ。ひっかいてやったろ」 

指先を曲げて猫のような仕草を見せる師匠の言葉に、彼女は怪訝な顔をする。
師匠もすぐに彼女の顔を凝視して、おや、という表情をした。 

「おい。あんなつながり方しといて、無事で済むわけないだろ。目はなんともないのか」 

言われた方は自分の目をそっと触った。細く長い指だった。 

「なにを言ってるのかわからない」 

「ノセボ効果を回避したのか? それともおまえ……」 

髪の長い方は連れと師匠との言い合いに戸惑った様子で、口を挟めないようだった。 

「おまえ、過去を見てたのか」 

師匠の目が細められる。 
異様な気配がその場に立ち込め始めたような錯覚があった。 

「だったら悪かったな。初対面だ。どうぞよろしく」 

からかうように師匠が頭をぴょこんと下げる。 
髪の短い方が冷ややかな目つきでその様子をねめつける。
 
「もう行きましょう」 

ただならない雰囲気に気おされて僕は師匠のジャケットを引っ張った。 

「まあいいや。とにかくもう家に帰れ。分かったな、子猫ちゃんたち」
 
バイバイ、と手を振って師匠はようやくセーラー服の二人から離れた。 
遠ざかっていく二人を振り返り、僕は師匠に訊いた。 

「あの子たちは誰なんですか」 

「さあ。名前も知らない。ただ、追いかけているらしい。同じヤツを」 

髪の毛が風に流されていく先をか。こんなバカな真似をしているのは僕と師匠だけだと思ったのに。
 
「あんのガキ」 

急に師匠がTシャツの裾をこすり始めた。その裾が妙に汚れていて、
こするたびにその汚れが薄く広がっていくように見えた。赤い染み。まるで血のように見えた。 

「なんです、それ」 

「イタズラだよ」

ガキのくせに。 
師匠はそう呟いて、シャツの裾をくるくると巻いてわき腹でくくり、僕の肩に手を置いた。

「さあ急ぐぞ。日が暮れる」 

そう急かされたが、僕には師匠のへそのあたりが気になって仕方がなかった。 
その後、さっきの二人が追いかけてくる様子もなく、また街なかをくるくると自転車で回り続けた。
確かに同じ場所は通らなかったが、風の道が本当に一本なのか不安になってきた。 
道がどこかでつながっていたとしたら、尻尾を飲み込んだウロボロスの蛇のように堂々巡りを繰り返すだけだ。 
そして、あるビルの真下にやってきたとき、師匠は忌々しげに

「くそっ」

と掃き捨てた。 
ビルを見上げると、十階建てほどの威容がそそり立っている。風は垂直に昇っていた。ビルの壁に沿って真上に。 
これでは先に進めない。 
ひたすらペダルをこぎ続けた疲れがドッと出て、僕は深く息を吐いた。目を凝らしても壁に沿って上昇した後の風の流れは見えなかった。 
しかし師匠は「ちょっと、待ってろ」と言って近くのおもちゃ屋に飛び込んで行った。 
そして出てきたときには手に風船のついた紐を持っていた。
ふわふわと風船は浮かんでいる。ヘリウムが入っているのだろう。 

「見てろよ」 

師匠は一際大きく吹いた風に合わせて、紐を離した。 
風船はあっと言う間に風に乗って上昇し、ビルの壁に沿って走った。そして五階の窓のあたりで大きく右に曲がり、
そのままビルの壁面を抜けた。壁の向こう側へ回りこんだようだ。 
僕と師匠はそれを見上げながら走って追いかけ、風船の行く先を見逃すまいと息を飲んだ。 
だが、風船はビルの壁の端を回りこんだあたりで、風のチューブに吸い込まれるような鋭い動きを止め、
あとはふわふわと自分自身の軽さに身を任せたかのようにゆっくりと空に上昇していった。 

「しまった」 

師匠はくやしそうに指を鳴らす。 
そうか。風が上昇するときは、風船もその空気の流れに沿って上昇していくが、下降を始めたら、
風船はその軽さから下向きの空気の流れに抗い、一瞬は風とともに下降してもやがてその流れから外れて、
勝手に上昇していってしまうのだ。恐らくは何度やっても同じことだろう。 
飛んで行く風船を見上げながら、僕たちはその場に立ち尽くしていた。これで道を指し示すものがなくなった。 
気がつくとあたりは日が落ちかけ、薄暗くなっていた。

「どうしますか」 

焦りを抑えて僕がそう問い掛けると、師匠は難しい顔をした。 
もう、零細興信所に持ち込まれた小さな依頼どころの話ではなかった。ありえないと思いつつも、起こりうる最悪の事態をあえて想定した時、この街に訪れるかも知れない最悪の未来は、凄惨なものだった。 
想像してしまって、自分の顔を手のひらで覆う。 
風の行き着く場所で大きな口をあけて、そのすべてを飲み込もうとしている怪物。その怪物が自らの口に飛び込んできた無数の人々の髪の毛を集めて、なにかをしようとしている。 
ガーンッ…… 
金属性のハンマーの音が頭の中に走った。思わず顔を上げ、幻聴であったことを確かめる。 
うそだろ。そんなことが現実に起こるのか。うそだろう。 
助けを求めるように師匠の方を見たが、いつになく蒼白い顔をしていた。 

「ガスか」 

「え」 

「着色したガス。それを流せば風の道が見える」 

それだ。その思いつきに興奮して、師匠の手を取った。 

「それですよ。いけます、それ」 

しかし師匠は浮かない顔だった。 
確かに着色ガスなどどこで手に入れたらいいのかとっさには分からない。しかし知り合いに片っ端から訊くとか、
あるいは街なかのミリタリーショップにでも行けばあっさりと売っているかも知れない。
もしくは駄菓子屋で売っていたような煙玉でもいい。 
少なくともここでビルを見上げているよりはマシだ。 
しかし師匠は首を振る。そして自分の腕時計を指し示す。 

「時間がない」 

「なぜです」 

「もう日が暮れる。なにかあるとしたら夜だ。確かに昨日から風は吹いていたけど、
明らかに今日になってから強くなった。今夜、それが起こるかも知れない。 
ここまでに掛かった時間を考えてみろ。
わたしたちはスタートがどこかも知らないんだ。この先、どこまでこの風の道が続くのかも」 

僕は口ごもった。 
しかし腹の底から湧いてくる焦燥が、考えも無く口を開かせる。 

「だったらどうするんですか」

我ながら子どもがだだをこねるような口ぶりに、師匠は

「なんとかするさ」

と口角を上げた。 
どれほど追い詰められても、この人はそのたびに常識を超えた解答を導き出す。正答、正しい答えではない、
ただ複雑に絡まりあった事象を一刀で断ち切るような、解答をだ。 
そんなとき、彼女の周囲には夥しい死と生の気配が、禍々しく、震えるように立ち込め、
僕はそれにえもいわれない恍惚を覚える。 

「行くぞ」 

どこへ、ではなく、はい、と僕は言った。 

            ◆ 

ビルの屋上は風が強かった。 
いつもそうなのか、それとも今日という日だからなのか、それは分からなかった。時間は夜の十二時を少し回ったころ。 
展望台として開放されているわけではない。ただこっそり忍び込んだのだ。
高い場所から見下ろす夜景は、なかなかに壮観だった。 
周辺で一番高いビルだから、その周囲の小さなビルの群れが月光に照らされている姿がよく見えた。
そしてその下のぽつぽつと夜の海に浮かぶ小船のような明かりも。 
師匠は転落防止のフェンスを乗り越えて、切り立った崖のような屋上の縁に腰をかけ、足を壁面に垂らして
ぶらぶらと揺らしていた。 
片方の手ですぐそばのフェンスを掴んではいるが、強風の中、実に危なっかしい。 
僕は真似ができずに、フェンスのこちら側で師匠のそばに座り、その横顔をそっと窺っていた。 

「…………」 

持ち込んだ携帯型のラジオからニュースが流れている。 

「続報、やらないなあ」 

師匠が呟く。 
さっき聴いたローカルニュースには僕も驚いた。 
市内の中心街で、夕方に毒ガス騒ぎがあったというのだ。黄色いガスがビルの回りに立ち込めて、周囲は騒然としたそうだ。 
すぐにそのガスはただの着色された無害なガスと分かり、厳戒態勢は解かれることになったのだが、
こんな平和な街でそんな事件が起こること自体が異常なことだった。 
犯人はまだ分かっていない。しかしその誰かは、師匠と同じことを考えたのに違いないだろう。 
騒動のあった場所は僕らが行き詰ったビルの前とは離れていた。
しかしそんなトラップのような場所が一ヶ所とは限らない。僕らよりもかなり手前にいたのか、
あるいはずっと先行していたのかも知れない。 

「だれでしょうね」 

そう問うと、師匠は

「さあ、なあ」

と言ってラジオの周波数を変えた。

「あの子たちじゃない気がするな。まあ、この街にも
こういう異変に気づくやつらが何人かはいるってことだろう」 

そのガスをつかった誰かは、風の行き着く先にたどり着けたのだろうか。
それとも出口のないウロボロスの蛇の輪に囚われてしまっただろうか。 
僕は今日一日、西へ東へと駆けずり回った街を感慨深く眺める。
この高さから夜の底を見下ろすと、地上のすべては箱庭のように見えた。現実感がない。 
さっきまであそこで這いずり回っていたのに。急に得た神の視点に、頭のどこかが戸惑っているのかも知れない。
 
「で、このあと、どうなるんです」 

なにも解決などしていなかった。それでもここでただこうしているだけだ。もう僕はすべてを師匠に委ねていた。 


あの後、僕らはビルを離れ、師匠の秘密基地へ向かった。ドブ川のそばに立っている格安の賃貸ガレージだ。
部屋の中に置けない怪しげな収集物はそこに隠しているらしい。 
シャッターを上げると、かび臭い匂いが鼻をついた。そして、感じられる人には感じられる、
凄まじい威圧感がその中から滲み出していた。 
その空気の中へ、どれで行くかな、などと鼻歌でも歌う調子で足を踏み入れた師匠は
しばらくゴソゴソとやっていたかと思うと、一つの箱を持ってガレージの外に出てきた。 

やっぱりこれだな。
 
そしてなにごとか呟いて、箱に施されていた細い縄の封印を解いた。
呟いたのは、短い呪い言葉のようだった。 
箱の中から現れたのは仮面だった。鬼のような顔をした古そうな仮面だったが、どこかのっぺりとしていた。 
だがそのときの僕は、もっととてつもないものが現れたのだと思った。
恐ろしさや、忌々しさ、無力感や、憤怒、そして嘆き。そうしたものが凝縮されたもの。 
なにか、災害のようなものが現れたのだと。 
身体が硬直して動けない僕を尻目に、師匠はその仮面の頭部に手をやり、そこに生えていた毛を一本毟り取った。 
そう。その仮面には髪の毛が生えていた。いや、髪の毛というより、
その部分の皮膚が仮面に張り付いて、剥がすときに肉ごとこそげ落ちてしまったかのようだった。 

髪は仮面の裏側にこびり付いた赤黒い肉から生えていた。 
これでいい。 
師匠はそう言ってまた仮面を箱に戻し、引き抜いた髪の毛だけをハンカチに包んで、行こう、と言った。 
それから師匠はまた市街地に戻り、強い風が吹いている場所に立ってニヤリと笑ってみせた。 
日は落ちて、街には人工の明かりが順々に灯っていた。 
目深に被ったキャップの下の目が妖しく輝いている。 
どうすると思う? 
もう分かった。師匠がなにをするつもりなのか。 
こうするんだ。 
そう言ったかと思うと、ハンカチから出したさっきの髪の毛をそっと指から離した。
それは風に乗り、あっと言う間に見えなくなってしまった。風の唸る音が、
耳にいつまでも残っているような気がした。 


「あの仮面は、なんだったんです」 


風の舞う深夜のビルの屋上でフェンスを挟んで座り、僕はぽつりと漏らした。
聞けばゾッとさせられるのは間違いないだろう。
しかし聞かずにもいられなかった。 

「あの面か」 

むき出しの足を屋上からはみ出させ、前後にぶらぶらと揺らしながら師匠は教えてくれた。
 
「金春(こんぱる)流を知ってるか」 

曰く、能の流派の一つで、主に桃山時代に豊臣秀吉の庇護を受けて全盛期を迎え、
一時代を築いた家なのだという。 
現代でも続くその金春流は、伝承によると聖徳太子のブレーンでもあった渡来人の秦氏の一人が
伝えたものだと言われ、非常に古い歴史を持っている。 
その聖徳太子が神通力をもって天より降ろし、金春流に授けたのが「天之面」と呼ばれる面だ。その後、その面は
金春家の守護神として代々大切に祀られ、箱に納めた上に注連縄を張り、金春家の土蔵に秘されていたという。 
天之面は恐ろしい力を持ち、様々な天変地異を起こしたと伝えられている。人々はその力を畏怖し、厳重に祀り、

「太夫といえども見てはならぬ」

と言われたほどであった。 
享保年間の『金春太夫書状』によれば、「世間にておそろし殿と申す面也」とされている。

また、「能に掛け申す面にては御座(イ)無く候」とも記されているとおり、
能の大家の守護神たる面にもかかわらず、能を演じるときに被られることはなく、
ただ秘伝である『翁』の技を伝授された太夫のみが一代に一度のみ見ることを許されたという。 

それは「鬼神」の面とも、「翁」の面とも言われているが、正体は謎のままである。
時代の下った現代では大和竹田の面塚に納められているとも言われるが、その所在は判然としていない。 
その「おそろし殿」と呼び畏れられた面が。「太夫といえども見てはならぬ」と称された面が…… 

「ちょっと、まってください」 

ようやく口を差し挟んだ。 
師匠は僕の目を見つめ返す。 

「あの面には、その、肉が。ついていました」 

能を演じる際に掛ける面ではない、と言われているのに、あきらかに誰かが被った痕跡があった。
いや、それ以前に、それほど古い面ならば、人間の肉など風化して崩れ落ちていてしかるべきではないか。
 
「ニンゲンの肉ならな」 

師匠は口元に小さく笑みを浮かべる。 
いや、そもそも、どうしてそんな面を師匠が持っているのだ。 

「話せば長くなるんだが。まあ簡単に言うと、ある人からもらったんだ」 

「誰です」 

「知らないほうがいいな」 

そっけない口調で、つい、と視線を逸らされた。 
なんだか恐ろしい。 
恐ろしかった。 
その面はただごとではない。自分自身がそれを見た瞬間に「災害のようなもの」と直感したことを思い出した。 
そして次に、師匠がその面の裏に張り付いた肉から抜き取った髪の毛を、風の中に解き放ったときの光景が脳裏に蘇る。
そのときの、風の唸り声も。 
ゾクゾクと寒気のする想像が頭の中を駆け巡る。 
髪の毛は風に乗って宙を舞い、街中を飛び続ける。まるで巨大ななにかが深く吸う息に、
手繰り寄せられるように。 
やがて髪の毛は誰かの手元にたどり着く。そして人間を模したヒトガタの奥深くに埋められる。
それを害することで、その髪の持ち主を害しようとする、昏い意思が漏れ出す。 
そして…… 
二十分か、三十分か。沈黙のうちに時間が経った。

深夜ラジオの音と、轟々という風の音だけが響く高層ビルの屋上で、僕はふいにその叫びを聞いた。 

h ―――――――――……………… 

声にならない声が、夜景の中に充満して、そして弾けた。断末魔の叫びのようだった。 
その余韻が消え去ったころ、恐る恐る街を見下ろすと、遥か地上ではなにごともなかったかのように
車のヘッドライトが、連なる糸となって流れていた。 
きっとあの叫び声が、悲鳴が、聞こえたのはこの街でもごくひと握りの人間たちだろう。
その人間たちは昼間の太陽の下よりも、暗い夜の中にこそ棲む生き物なのだ。 
自分と、師匠のように。 

「結局、曽我ナントカだったのか、別の誰かだったのか分からなかったな。
黒魔術だか、陰陽道だか、呪禁道だか知らないが、たいしたやつだよ」 

その夜の側から、師匠が言葉を紡ぐ。 

「だけど」 

相手が悪かったな。なにしろ国宝級に祟り神すぎるやつだ。 
ひそひそと、誰に聞かせるでもなく囁く。 
僕はその横顔を金網越しに見つめていた。落ちたら助からない高さに腰をかけ、足をぶら下げているその人を。 

その左目の下あたりからは、いつの間にかぽろぽろと光の雫がこぼれている。
そしてその雫は高いビルの屋上から、海のような暗い夜の底へと音もなくゆっくりと沈んでいく。 
この世のものとは思えない幻想的な美しさだった。 

われ知らず、僕はその光景に重ね合わせていた。見たこともないはずの、鷹の涙を。
あるいは、夜行性の鳥類の涙…… 例えば、フクロウの流すそれを。 

気がつくと、風はもう止んでいた。