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431 : 保育園後編[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 20:19:43.45 ID:a0GyUdbC0 [21/30回(PC)]
僕はそれに従う。 
師匠の足元に魔方陣がある。 
だんだんと近づいていく。 
大きな円の中に、三角形が二つ交互に重なって収まっている。ダビデの星だ。 
だんだんと近づいてくる。 
そしてその星と円周の間になにか奇妙な文字のようなものがあり、ぐるりと円を一周している。 
魔方陣。 
魔方陣だ。 
写真で見たものと同じ。 
だが、僕はその地面に描かれた姿に、一瞬、言葉に言い表せない奇怪なものを感じた。


432 : 保育園後編[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 20:24:31.93 ID:a0GyUdbC0 [22/30回(PC)]
それがなんなのか。 
何故なのか。 
知りたい。 
いや知りたくない。 
足は止まらない。 
師匠の背中が迫る。 
キリキリと空気の中に刃物が混ざっているような感じ。 
「見ろ」 
師匠がそう言う。 
僕はその横に並び、足元に描かれたその模様を見下ろす。 
心臓を、誰かに掴まれたような気がした。 
足跡が、残っていなかったわけがわかった。 
師匠が異様に緊張しているわけがわかった。 
あの一瞬で、誰にも見られずにこれが描かれたわけがわかった。



433 : 保育園後編[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 20:30:08.73 ID:a0GyUdbC0 [23/30回(PC)]
傘じゃない。 
傘の先なんかで描かれたんじゃなかった。 
写真で見ただけじゃわからなかったことが、ここまで近づくとよくわかった。 
その円は、重なった二つの三角形は、そして何処のものとも知れない文字は。 
地面を抉ってはいなかった。 
その逆。 
土が盛り上がって作られている。 
まるで誰かが、土の底、地面の内側から大きな指でなぞったかのように。 
「うっ」 
吐き気を、手で押さえる。 
ついさっきまで、なにも感じなかったはずの園庭に、今は異常な気配が満ちている。 
とても『残りカス』などと評されたものとは思えない。全く異なる、底知れない気配。 
地中から湧き上がって来る悪意のようなもの。



434 : 保育園後編[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 20:31:02.87 ID:a0GyUdbC0 [24/30回(PC)]
僕は地の底から巨大な誰かの顔が、こちらを見ているような錯覚に陥る。 
そしてその視線は、気配は、すべて、緊張し顔を強張らせる師匠に向かって流れている。 
その凍てついたような空気の中、師匠は滑るように動き出し、腰に巻いていたポシェットから小さなスコップを取り出した。そして魔方陣の中に足を踏み入れ、その刃先を円の真ん中に突き立てた。動けないでいる僕の目の前で、師匠は土を掘る。 
ガシガシ、という音だけが響く。 
やがてその手が止まり、左手が地面の奥へ差し入れられる。 
左手がゆっくりと何かを掴んで地表に出てくる。 
人の手。 
黒く、腐った人間の手。 
ゾクリとした。 
誰の手。 
誰の。



435 : 保育園後編[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 20:43:29.33 ID:a0GyUdbC0 [25/30回(PC)]
だが師匠がそれを胸の高さまで持ち上げた瞬間、それが人形の手であることに気づく。 
マネキンの手か。 
土で汚れた黒い肌に、かすかな光沢が見える。肘までしかない、マネキンの手。 
クマのぬいぐるみなどではなかった。どういうことなのか。 
「トンボ」 
師匠がボソリと言う。そして僕を促すように反対の手で招くような仕草をする。 
意図を知って僕は振り向き、園舎の方へ走り出す。その場を離れたかった、という気持ちがないと言えば嘘になる。 
地面の内側から描かれたような魔方陣。立ち込める異様な気配。魔方陣の中に埋められたマネキンの手。 
ただごとではなかった。その場に立ち会うには、僕はまだ早すぎる。そんな直感に襲われたのだ。
436 : 保育園後編[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 20:50:34.47 ID:a0GyUdbC0 [26/30回(PC)]
走ってくる僕に、怯えたような表情をした保育士たちだったが、「トンボを借ります」と言うと、玄関から出てきて、裏手の物置へ案内してくれた。 
取っ手の錆びついたトンボを引きずりながら園庭に出てくると、煙が立っているのが見える。師匠が魔方陣の上で、マネキンの手を燃やしているのだ。 
黒い煙がゆらゆらと立ち上っている。 
ポシェットに入っていたらしい小型のガスボンベにノズルを取り付けて、ライターで火をつけ、バーナーのように使っていた。 
煙を吸わないように服のそでを口元に当てながら、師匠はそうしてマネキンの手を燃やしていった。 
やがて燃えカスを蹴飛ばし、僕に向かって「トンボ」と言う。手渡すと師匠はためらいもなく魔方陣を消した。ワイパーで汚れを取るように。 
地面がすっかりならされ、魔方陣など跡形もなくなったころ、師匠は僕に顔を向けた。



437 : 保育園後編[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 20:51:22.17 ID:a0GyUdbC0 [27/30回(PC)]
「解決」 
そうして笑った。 
だがその顔はどこか強張り、額から落ちる汗で一面が濡れている。 
地中深くから湧き上ってくるようなプレッシャーもいつの間にか霧散していた。 
それからまた僕らは園舎に戻り、五歳児室で車座に座った。 
保育士たちは、忽然と現れた魔方陣とそこから出土したマネキンの手に、今でも信じられないという様子で生唾を呑んでいる。 
やがてクマのぬいぐるみを埋めた、と証言した由衣先生が、あんなものは知らないと喚いた。だが、現実に出てきたのはマネキンの手だ。 
落ち着かせようと優しい言葉をかける悦子先生の横で、麻美先生が口を開く。 
「私も聞いた話で、自信がなかったんだけど。やっぱり間違いない。沼田ちかちゃんは、確か母子家庭だったはず」 
父子家庭じゃなくて。



438 : 保育園後編[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 20:51:59.39 ID:a0GyUdbC0 [28/30回(PC)]
それも蒸発などではなく、死別だったはずだ、と言うのだ。 
ではあの夜、由衣先生の前に現れてぬいぐるみを託したの男は誰なのだ。そもそもそれは本当にぬいぐるみだったのか。 
疑いの目が由衣先生に集まる。 
「知らない。私知らない」 
錯乱してそう繰り返すだけの由衣先生に、師匠は取り成すように告げる。 
「記憶の混乱ですね。この園に巣食っていた霊の仕業でしょう。ですがそれももう終わったことです。元凶はさっき私が燃やしてしまいましたから。もう何も霊的なものは感じられません。これでおかしなことは起こらないはずです」 
きっぱりとそう言った師匠に、先生たちはどこか安堵したような顔になった。 
「もしなにかあったら、アフターサービスで駆けつけますよ。いつでも呼んでください」 
その笑顔に、みんなころりと騙されたのだ。 
解決などしていなかった。



439 : 保育園後編[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 20:52:34.26 ID:a0GyUdbC0 [29/30回(PC)]
これまでにこの保育園で起こっていた怪奇現象の原因は恐らく、師匠が感じていた『残りカス』の方だろう。 
だがそれはもう消え去っている。 
いつ? 
たぶん、魔方陣が最初に現れた日。いや、ちかちゃんの父親を名乗る男が得体の知れないなにかを携えてやって来た日かも知れない。 
それは、そんなごく普通の悪霊など、近づいただけで吹き飛ばされて消えてしまうような、底知れない力を持ったものだったのだろうか。 
だが師匠はなにも言わなかった。 
ただ僕たちはお礼を言われて、その保育園を出た。去り際、悦子先生がまだ泣いている由衣先生を叱咤して、「ほら、しっかりして。もう大丈夫だから」と肩を抱いてあげていた。 
まあ、これはこれで良かったのかな、と僕は思った。



440 : 保育園後編[sage] 投稿日:2012/06/16(土) 20:53:24.53 ID:a0GyUdbC0 [30/30回(PC)]
その帰り道、事務所へ向かう途中で、師匠は文具屋に立ち寄り、市内の地図を買った。 
かなり詳細な地図だ。 
そしてその場でそれを広げ、さっきの保育園が載っている場所に、マーカーで印をつけた。日付と、魔方陣の絵。そしてマネキンの手の図案を添えて。 
「それをどうするんですか」 
僕が訊くと、師匠ははぐらかすように言った。 
「どうもしないよ。けど、なんとなく、な」 
その時の師匠の目の奥の光を、僕は今も覚えている。なんだか暗く、深い光だ。 
それを見た時の僕は、なんとも言えない不安な気持ちになった。 
死の兆し。 
それをはっきり意識したのは、その時が最初だったのかも知れない。 

(完)