456 : ④[sage] 投稿日:2011/02/04(金) 22:56:07 ID:0eA9Ogs10 [4/8回(PC)]
 「鏡の中に映る人、というのは、元来鏡の中に生きる人で、 
それが平生僕や君の形を成して、僕や君が鏡の前に座る時現れるんだそうだ」 

 Bは、いつもよりもAの話に惹かれ、立ち上がって 
鏡台のところまで歩いていった。鏡台には布が掛けられている。 

 「布をとってもいいかい」 

 Bがそう聞くと、Aは相変わらず人を食ったような表情で、 
無言のまま頷いた。Bは布をめくり、その中をのぞき込んだ。 

 「じゃあ、こうして今鏡の中に映っている私は、私ではなく、 
鏡の中に棲む私が見えているだけというのか」 

 そういいながら、Bは右手をあげたり、左手をあげたりしながら、 
鏡の中に棲む自分とやらと見つめ合った。 

 「そうだ。そうして人が死んだ時に、その鏡を割ってやらないと、 
そこに棲んでいるものが出てきてしまう、という話らしい」 
 「成る程、面白い風習だ」 

Bは、下心もあってか、その話が何かの自著の題材に 
できないかと思い、更に先を促した。 

 「勿論、この話には続きがある」 

 Bはそれを聞いてAに向き直り、どんな話が語られるのかと構えた。 
そんな様子のBを見てAは薄く笑ったが、すぐに真面目な顔になり、声を少し落とした。

 
457 : ⑤[sage] 投稿日:2011/02/04(金) 22:56:48 ID:0eA9Ogs10 [5/8回(PC)]
 「鏡を割る、と言うよりも、鏡を割らなければいけない、という意味でもあるそうだ」 

 Aは続ける。 

 「鏡を割らないでいると、鏡の中に棲むものがこちらに 
出てきてしまい、死んだものと成り代わる、というらしい」 
 「鏡の中に棲むものが、実体を得ると?」 
 「そうだ、そして、その抜け出たものは鏡に映らなくなり、 
抜け出たものがその鏡を割ってしまうと、もう誰もそれが 
鏡の中から出てきたものだとは気づけなくなってしまう、ということらしい」 

 そこまで聞いて、些かBはがっかりした。Aの話しぶりからして、 
もう既にAはこれを題材にした腹案を持っているだろうということが、 
直感的に分かった。それと同時に、友人の蒐集した奇譚を剽窃しようとした自分を恥じた。 

 「与太話だと思うだろう」 

 そんな様子を見ていたAがBにそんな事を聞いた。 

 「僕だって、馬鹿げた話だなと思うさ」 

 意外なことにAはそんな風に続けた。Bはその態度に戸惑った。 
Aはそう言った話に対してはやに執着する気があった。 
今まで自分の蒐集した話に対してそんな事を言うのは、聞いた事がなかった。 

 「だが」 

 戸惑うBを余所に、またAは続ける。 

 「あながち、ただの与太話ではないかも知れない、という気はするがね」 

 Bはころころと変わるAの態度が、いよいよ分からなくなった。



458 : ⑥[sage] 投稿日:2011/02/04(金) 22:57:38 ID:0eA9Ogs10 [6/8回(PC)]
 「それは、どう言うことだい」 
 「枕があるだろう。寝る時に使うあれだ」 
 「ああ」 
 「人間は、生きている内で、その多くの時間、頭を枕に預けているだろう」 

 急に話は枕へと逸れた。Bはまた、そこから 
どんな奇譚が飛び出すのかと、戸惑いながらも、身構えた。 

 「魂や心というものは、頭に宿る、という話は聞いたことがあるだろう?」 
 「いつか、君が話してくれたような気もするね」 
 「そうだったかな。まあ、その魂や心の宿る頭を 
預け続けている枕には、少しずつ魂や心が移っていく、という話もあるんだ」 

 人間が生きている内に、そうやって魂や心を傾けているものには、 
少なからず魂や心が移っていくという話が往々にしてある。 
枕は勿論のこと、筆や硯、言うなれば家などにも、それは移っていく。 
そう思えば、鏡だってそれが移る事があっても、何ら不思議はない。 
形は違えども、そういった思想の上に、その話が出来たのだろう、とAは語る。 

 「そら、このペンだって僕は愛用している。 
だからこれには僕の魂が幾らかは移っているんだぜ」 

 Aはそう言って、机の上のペンを取って見せた。Bにしても、 
成る程と思える話だった。多分に余計な尾鰭がついたのは、 
Aの持ち寄った話であるからだが、その根底には「ものに宿る人の魂」 
のようなものが見え隠れしていたし、いつか聞いた「九十九神」のことも思い浮かんだ。



459 : ⑦[sage] 投稿日:2011/02/04(金) 22:58:55 ID:0eA9Ogs10 [7/8回(PC)]
 そこでAの話は終わった。Bは、また鏡に向くと、そこに映った 
己の姿をぼんやりと眺めた。そして、そのぴかぴかの鏡面に映った自分は誰なのか、 
鏡の中の自分とやらなのか、とそれを考えていた。そうこうしているうちに、 
階下で呼び鈴が鳴った。郵便夫のようだった。生憎、その時Aの家には 
AとBの二人しかいなかったから、Aは「失敬」と言いながら立ち上がった。 
BはAの邪魔にならぬように、鏡台から下がって、入り口への通路を開けた。 
そうして、Aが横切って行くのを目で追っていた。 
ふと、視界の向こうに、鏡が見え、何の気なしにそれをのぞき込んだ。 
だが、そこにはB以外の何者も映っていないのをBは見た気がした。 

 階下へと下って行く足音にはっとしながら、Bは、 
先程Aがペンを取った手は、果たして右手だったか、左手だったかと思い返そうとしていた―――。 



この話はそこで終わっている。果たしてこれがBの創作であるのか、 
実話であるのかは分からない。だが、ここにこうして、或る小説家にまつわる 
もう一つの話があったことを、記しておく。 

 Aは、鏡から抜け出た何か、だったのか。 
この話がもしも、真実であるのならば、彼が晩年に見かけたと言われる 
ドッペルゲンガーというものは、或いは―――。