742 : 土の下   ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2010/09/26(日) 21:45:27 ID:Lt8tjlVs0 [7/9回(PC)]
その言葉にぞくりとする。腹の表面を撫でられたような感覚。 
ズクッ、と土の上にスコップが振り下ろされる。落ち葉ごと地面が抉られ、立て続けにその先端が土を掘り返していく。 
「こんぱくの意味は知っているな」 
手を動かしながら師匠が問い掛けてくる。 
魂魄? たましいのことか。 
確か『魂(こん)』の方が心というか、精神のたましいのことで、『魄(はく)』の方は肉体に宿るたましいのことだったはずだ。 
そんなことを言うと、師匠は「まあそんな感じだ」と頷く。 
「中国の道教の思想では、魂魄の『魂』は陰陽のうちの陽の気で、天から授かったものだ。そして『魄』の方は陰の気で、地から授かったもの。どちらも人が死んだ後は肉体から離れていく。だけどその向かう先に違いがある」 
口を動かしながらも黙々と土を掘り進めている。僕はその姿を、少し離れた場所から懐中電灯で照らしてじっと見ている。師匠の頭上には山あいの深い闇があり、その闇の底から人の足が悪い冗談のようにぶらさがって伸びている。 
寒気のする光景だ。 
「天から授かった『魂』は、天に帰る。そして地から授かった『魄』は地に帰るとされている。現代の日本人はみんな、人が死んだあとに、たましいが抜け出て天へ召されていくというテンプレートなイメージを持っているな。貧困だ。実に」 
なにが言いたいんだろう。ドキドキしてきた。 
「別に『人間の死後はこうなる』ってハナシをしたいんじゃないんだ。ただ、経験でな。何度かこういう首吊り死体に出くわしたことがあるんだ。そんな時、いつもある現象が起こるんだよ。それがなんなんだろうと思ってな」 
スコップを振る腕が力強くなってきた。 
「同じ首吊りでも室内とか、アスファルトやらコンクリの上だと駄目なんだよな。だけどこういう……土の上だと、たいてい出てくるんだ。死体の真下から」 
ひゅっ、と息が漏れる。 
自分の口から出たのだとしばらくしてから気づく。さっきまで汗にまみれていたのが嘘のように、今は得体の知れない寒気がする。 
「お。出たぞ。来てみろ」 
師匠がスコップを放り投げ、地面に顔を近づける。

 
743 : 土の下   ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2010/09/26(日) 21:49:21 ID:Lt8tjlVs0 [8/9回(PC)]
なんだ。なにが土の下にあるというのだ。 
動けないでいる僕に、師匠は土の下から掬い上げたなにかを右の手のひらに乗せ、こちらに振り向くや、真っ直ぐに鼻先へつきつけてきた。 
茶色っぽい。なにかとろとろとしたもの。指の隙間からそれが糸を引くようにこぼれて落ちていく。 
「なんだか分かるか」 
口も利けず、小刻みに首を左右に振ることしかできない。 
「私にも分からない。でも、首吊り死体の下の地面にはたいていこれがある。これが場所や民族、人種を超えて普遍的に起こる現象ならば、観察されたこれにはなにか意味があるものとして理由付けがされただろうな。……例えば、『魄』は地に帰る、とでも」 
とろとろとそれが指の間からしたたり落ちていく。まるで意思を持って手のひらから逃れるように。 
「日本でもこいつの話はあるよ。『安斎随筆』だったか、『甲子夜話』だったか…… 首吊り死体の下を掘ったらこういうなんだかよく分からないものが出てくるんだ」 
師匠は左目の下をもう片方の手の指で掻く。 
嬉しそうだ。尋常な目付きではない。 
僕は自分でも奇妙な体験は何度もしたし、怪談話の類はこれでも結構収集したつもりだった。なのにまったく聞いたこともない。想像だにしたことがなかった。首吊り死体の下の地面を掘るなんて。 
なぜこの人は、こんなことを知っているんだ。 
底知れない思いがして、恐れと畏敬が入り混じったような感情が渦巻く。 
「ああ、もう消える」 
手のひらに残っていた茶色いものは、すべて逃げるように流れ落ちてしまった。手の下の地面を見ても、落ちたはずのその痕跡は残っていない。どこに消えてしまったのか。 
「地面から掘り出すと、あっと言う間に消えるんだ。もう土の下のも全部消えたみたいだ」 
師匠はもう一度スコップを手にして土にできた穴の同じ場所に二、三度突き入れたが、やがて首を振った。 
「な、面白いだろ」 
そう言って師匠が顔を上げた瞬間だ。 
強い風が吹いて窪地の周囲の木々を一斉にざわざわと掻き揺らした。思わず首をすくめて天を仰ぐ。



745 : 土の下  ラスト  ◆oJUBn2VTGE [ウニ 今夜は終わりです] 投稿日:2010/09/26(日) 21:55:09 ID:Lt8tjlVs0 [9/9回(PC)]
ハッとした。 
心臓に楔を打ち込まれたみたいな感覚。 
地面に向けている懐中電灯の明かりにぼんやりと照らされて、宙に浮かぶ首吊り死体の足先が見える。 
朽ちたようなジーンズと、その下の履き古したスニーカーが先端をこちらに向けている。さっきまで、死体は背中を向けていたはずなのに。 
懐中電灯をじわじわと上にあげていくと、死体の不自然に曲がった首と、俯くように垂れた頭がこちらを向いている。 
髪がボサボサに伸びていて、真下から覗き込まないと顔は見えない。 
風か。風で裏返ったのか。 
背筋に冷たいものが走る。 
首を吊ったままの身体は、その手足が異様に突っ張った状態で、頭部以外のすべてが真っ直ぐに硬直している。 
風でロープが捩れたのなら、また同じように今度は逆方向へ捩れていくはずだ。 
そう思いながら息を飲んで見ているが、首吊り死体は垂直に強張ったまま動く気配はなかった。 
その動く気配がないことが、なにより恐ろしかった。 
僕の感じている恐怖に気づいているのかいないのか、師匠はこちらを向いたまま嬉々とした声を上げる。 
「どっちだろうな」 
そう言ってニコリと笑う。 
どっちって、なんのことだ。天を仰いでいた顔をゆっくりと師匠の方へ向けていく。首の骨の間の油が切れたようにギシギシと軋む。 
「誰かが首を吊って死んだから、さっきのへんなものが土の下に現れるのか。それとも……」 
師匠はそう言いながら自分の真上を振り仰いだ。そして頭上にある死体の顔のあたりを真っ直ぐに見る。視線を合わせようとするように。 
「あれが土の下にあるから、人がここで首を吊るのか」 
なあ、どっちだ。 
そう言って死体に問い掛ける。 
肩が手の届く位置にあれば、親しげに抱いて語り掛けるような声で。