738 : 土の下   ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2010/09/26(日) 21:30:33 ID:Lt8tjlVs0 [4/9回(PC)]
「なんだおい。大丈夫だよ」 
「大丈夫なわけないでしょう」 
とにかく傷の様子を確かめようと、もう一度無理やり腕を掴む。 
あれ? 
傷が…… 
ない。 
顔にもあるような擦り傷くらいしか。 
呆然とする。 
だったらこの血は? 
拭ったタオルにはべっとりと血がついている。見間違いではない。 
「大丈夫だって言ってるだろ」 
師匠は乱暴に腕を振り払うと捲り上げていた袖を元に戻し、沢を渡り始めた。 
僕はしばらくタオルの血と師匠の背中を見比べていたが、やがて「見なかったことにしよう」と結論付けて手の中のタオルを投げ捨てた。考えるだに恐ろしいからだ。 
そして「待ってください」とその背中を追いかける。 

師匠はまだまだやる気満々で、それから日が完全に暮れるまでにさらに二箇所で墓を発見した。 
山歩きに慣れた人の後ろをついて行くだけで僕は息が上がり、「もう帰りましょう」と何度も訴えたが、そんな言葉など無視して「こっちだ」と道なき道を迷わず進まれると、溜め息をつきながら追いすがらざるを得ないのだった。 
山道の傍で見つけた最後の墓は墓名もなく、小さめの石を二つ重ねただけのもので、そうと言われなければ気づかなかったに違いない。 
師匠は手を合わせたまま呟いた。 
「こんな小さなみすぼらしい墓を見るとさ、なんか嬉しくなるな」 
「なぜです」 
意外な気がした。 
「金が無かったのか、縁が無かったのか…… もしかしたら名前も付けられないまま死んだ子どもだったのかも知れない」 
「きちんとした墓を建ててもらえなかった人のことが、なぜ嬉しくなるんです」 
師匠は静かに顔を上げる。 

 
739 : 土の下   ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2010/09/26(日) 21:34:41 ID:Lt8tjlVs0 [5/9回(PC)]
「それでも、その人がいたという証に、こんな小さな墓が残っている」 
苔むした石の台座に線香が二本。煙がゆったりと立ち上っている。師匠は腕を伸ばし、線香に水を掛けた。 
「こうして手を合わせる人だって、気まぐれにやってくる」 
さあ、帰ろうかと言って立ち上がった。僕も慌ててリュックサックから出したものを片付ける。 
帰り道は真っ暗で、持参していた懐中電灯をそれぞれ掲げた。来た時とは違う道だ。師匠は近道のはずだと言う。 
足元にも気を付けつつ、師匠の背中を見失わないように見通しの悪い下り坂を慎重に歩いたが、心はさっきの小さな墓に繋ぎ止められていた。 
(その人がいたという証か……) 
死は死を死なしむ、という言葉がふいに浮かんだ。誰かの詠んだ歌だったか。 
人が死ぬということは、その人の心の中に残っているかつて死んだ近しい人々の記憶がもう一度、そして永遠に揮発してしまうということだ、という意味だったと思う。 
さっきの墓の主も、きっともうなんの記録にも、そして誰の記憶にも残っていないだろう。 
それでも石は残る。 
その意味を考えていた。 
ぼうっとしていると、師匠の声が遠くから聞こえた。 
「おい」 
我に返ると、師匠が道の途中で立ち止まり、藪の切れた脇道の方に懐中電灯を向けていた。 
「どうしたんです」 
横顔が心なしか緊張しているように見える。 
「自殺だ」 
「えっ」 
驚いて駆け寄る。 
草が生い茂り、一見しただけは道だと思わないような場所に、誰かが通ったような痕跡が確かにある。 
踏まれて倒れた草の向こうに懐中電灯を向ける。師匠と僕の二つの光が交差し、照らし出される先には宙に浮かぶ人影があった。 
首吊りだ。 
思わず生唾を飲み込む。 
窪地の木の下に人がぶらさがっている。



740 : 土の下   ◆oJUBn2VTGE [ウニ] 投稿日:2010/09/26(日) 21:38:32 ID:Lt8tjlVs0 [6/9回(PC)]
ガサリと音がして、横にいた師匠がそちらに向い動き出す。止める間もなかった。 
僕は一瞬怯んだ。ひと気のない夜の山中に、人の形をしたものが人工の明かりに照らされて空中にある、ということがこれほど怖いものだとは。 
まだしもぼんやりとした霊体を見てしまったという方がましな気がした。 
それでも師匠の背中を追って足を踏み出す。軽い下り坂になっている。青っぽいポロシャツにジーンズという服装がほぼ正面に現れる。その姿が後ろ向きであることに少しホッとした。 
さらに坂を下り近づいて行くと、かなり高い位置に足があることに気づく。背伸びをしても靴に手が届かない。 
死体のベルトの位置に、張り出した枝が一本。きっとあそこまで木登りをして枝に足をかけた状態から落下したのだろう。 
恐れていた匂いはない。春とはいえこの気温の高さだから、二、三日も経っていれば腐敗が進んでいるはずだ。首を吊ってからそれほど時間が経っていないのかも知れない。 
だがシャツから出ている手は嫌に白っぽく、血の通った色をしていなかった。 
師匠は前に回り込んで、首吊り死体の顔のあたりに懐中電灯を向けている。そして「おお」という短い声を発して気持ち悪そうに後ずさった。 
僕は同じことをする気にはなれず、その様子を見ているだけだった。 
やがて一頻り死体を観察して満足したのか、師匠は変に弾んだ足取りでその周囲をうろうろと歩き回り始めた。 
「下ろしてあげた方がいいでしょうか」 
僕はそう言いながらも、あの高さから下ろすのはかなり難しそうだと考えていた。高枝切バサミかなにかでロープを切るしかなさそうだ。 
「まあ待てよ」 
師匠はなにか良からぬことを企んでいるような口調で、腰に巻いたポシェットの中を探り始めた。 
さっきまで見ず知らずの人の小さな墓に手を合わせていた人間と同一人物とは思えない態度だ。この二面性が、らしいといえばらしいのだが。 
「お、偉い、自分。持ってきてた」 
おもちゃの様な小さなスコップが出てきた。師匠はそれを手に首吊り死体の真下のあたりにしゃがみ込む。 
そして右手にスコップを振りかざした状態でくるりと首だけをこちらに向ける。 
「面白いことを教えてやろう」